麻布十番の妖遊戯

 そうこうしているうちに、影の内から垂れる水のようにつぅっと民家の前に姿を現したのは、お洒落な長羽織を着た細身の男。
 腰には刀がぶらさがっている。

 仲間内では『メロンソーダ侍』通称『侍(ざむらい)』と呼ばれている。

 侍風ではあるが、生前は侍ではない。大店の長男坊として生まれたのに大して働かず、遊び放題に遊んで家族はもちろん、方方に迷惑ばかりかけていた放蕩息子であった。

「よっこらせ」と掛け声をかけながら建て付けの悪い引き戸を雑に開け、憎めない笑顔を覗かせた。

「やいや、今日もさむいなあ。これは昭子さんのせいだよ。あれがいるから寒さが増すんだ。まったくしょうもねえ。太郎、あれだ、いつものをちょいとくんな」

「おや侍さん、今日は来るのがずいぶんと早いじゃないか。それに外はそんなに寒いのかい? 寒いのは体にこたえるからやだねえ。いつものアレだね。ちょっと待ってくんな」

 しゃがれた声で返事をよこしたのはこの民家の主人、タロ太郎だ。
『タロ』が苗字で『太郎』が名前だというんだからふざけている。

 いつぞやの頃からかこの名前一本で通していて、今ではもう自分の本当の名がなんなのか、本人ですら首を傾げる状態であった。
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