うるの黄昏
■閏乃



掛ける呼吸の彼方に輝ではなく闇が在るのだとしたら歩みを止めて待つのだろうか。
すぐ後ろには黄昏が迫っている。
喰われる前に逃げなければ、と賢者は云う。
蠢く黄昏の情はいつか腐蝕し、ただれた肉となり骨となり、この身を耕す肥やしになるかと、天生門の鬼に問うなれば。

喰らうならそれで終わりよ、と鬼は詠う。
それでも脚は動かぬまま、得も謂わぬ呼気の重ねに。




――長野県根羽村黒地。


「この大木は樹齢百五十年を超える老木で、柿の実も二年に一度くらいしか実らなくなりました」

しゃがれ皺を刻む地元の爺が沈み込んだ声で言う。
腰の曲がったその姿は、今まさに目の前にしている柿の大木さながらに言葉少なに物語る。
辺りは静かな田舎の空気が漂い、ちらほらと観光客向けの看板や観光客は見られるが、見苦しいほどではない。
梅雨が未だ触手を残す蒸し暑さに、此処へ来る途中で見つけた小川の涼しさを思う。
暑さの増したこの時期、この辺りなら蛍も見ることができただろう、と閏乃(うるの)はぼんやりと考えていた。
しかし爺の言葉に違和感を覚え、眼前に広がる不気味なまでに節々とした枝を見上げる。

「年寄りには見えない頑張りっぷりだけどなぁ」

――鈴なり、とはまさにこれを言うのか。
バケモノを彷彿とさせる痩せた大木は、我が子をこれでもかとその体にぶら下げている。
くすんだ橙の柿の実はどこかおぞましさすら感じさせ、ただでさえ不気味な大木に老人は奇怪を感じとり身を震わせた。

「えぇ、えぇ。異常なんです。この大木がこの時期に実を付けるのも、此処まで実をつけるのも」

辺りは腐り始めた実のにおいが充満している。
まるで爛れた汁のようなそれに、閏乃は下品に鼻を鳴らした。
風に微かに揺らめく様すらどこか老弱だが、幽玄である。
けれど尻込みしてしまうほどの威圧感が在る。

「……ただの大木にしちゃ、くさいなぁ」

腐敗する柿の実とはまた違った臭い。
ぞろぞろと鼻孔から侵入したそれは、気持ち悪いものを胎内に留めていくように濃厚。

「以前は神仏化してもおかしくないほど美しく壮大な老木であったのに、今ではもう……」

――その現象が起きたのは数週間前。

老木を見にきていた観光客がひとり、死んだ。
そのカメラマンであったその男は、世界で最も有名な柿の大木を写しにきていたと思われる。
しかしそのカメ子魂のせいか、柿の木がある所有地内に入り込み、ロープすら乗り越えて中に入ってしまったのだ。
恐らくもっと近くで、という安易な考えだったのだろう。
だが男は、その直後、苦しみ悶え死に絶えたのだ。
立ち入り禁止を破った代償としては大きすぎる。

「大木の根が埋まる土が盛り上がったかと思えば、男の脚を少し飲み込みそのまま……」

数人の観光客と地元民が居たらしいが、皆が皆、悪夢に囚われるまでに酷い光景を見たという。
盛り上がった土は流砂のように男を飲み込み、頭ひとつ残して地面に埋め込んだ。
土中からばきばきと骨が折れる音がする。
ぶちぶちと筋肉が千切れる音がする。
静かな村に、白目を向いた男の悲痛な阿鼻叫喚が響き渡った。

「救出された時にはもう、全身の水分を干上がらせた状態で」
「脳味噌まで喰われてたって?……おぇ、グロイ」

閏乃は舌を出しえづいて見せる。
老人が訝しげな顔でこちらを見ていた。
怪しんでいるのは当然。
この奇怪な事件。
助けを求めたのはその世界では有名な裏高野。
まさかこんな子供が寄越されるとは思ってもみなかったのだろう。

(俺もまさか学校が終わってすぐ飛ばされるとは思わなかったなー)

閏乃は深く溜め息を吐くと以前訝しげな老人に向き直った。

「……永い時間を生きた植物に魂が宿ることは珍しくありません。特にこういったケースは珍しくない。大木に魂が宿る、などとはよく言ったものですがね。けれどその魂に善悪はなく、ただ本能だけで形成された魂に善悪をつけることすら間違っています。だからこそ危険な存在になりうる。魂はあるが考える頭を持っていない――それだけに、本能だけで永年に渡り永蓄されてきた強力な魂をふりかざす」

――それが憐れな男に向けられた結末だ。

閏乃はわざと口調を落としてそう言い終えた。
学生服でこんなことを言ったとしてもキマリはしないのだが、まぁ、白い目で見られるよりはマシだ。
多少は仕事がし易くなる。老人は見直したかのような光を窪んだ目に宿らせ、閏乃を見上げてきた。

「それで、一体どうすれば……」

縋るような視線に気付きながら、閏乃は爺から眼を逸らす。
柿の大木は先程とはまた打って変わって雰囲気を変えていた。
誰が敵かを見なしたらしい。
一部始終聞かれていたのだ。
大木が己を滅しようとする存在に牙を向く――生物として当然だろう。

「どうすれば、よいのですか」

異様なまでの腐蝕に吐き気がする。
既にこの体自体が、腐り始めているのか。
老人の絶望が滲む声と、大木の絶望が重なった気がした。

「壊します」

――その発言に猛抗議をしてきた爺を村人に押し付け半強制的に追いやり、閏乃は大木が眠る柔らかな土を踏んだ。
確かに柔らかい。
気を抜けばズブズブと沈んでいってしまいそうなまでに。
しかしどこかスポンジを踏んでいるようで心地良い。

(ケーキ食べたくなってきた)

しかし遠くから先程の爺と彼を拘束保護している村人達の視線を感じる。
下手に怠けるわけにもいかないし、簡単に終わらせることも出来やしないらしい。
閏乃はすぐ眼前に来た腐臭を放出する大木に向かってこう言った。

「老いぼれは老いぼれらしく、ゆっくり養生しなさいよ」

今にも地鳴りが起こりそうな空気だった。
柿の大木からかなり離れた場所で、村人達全員がその光景に息を飲む。
観光客は何故か全員、閏乃という少年の登場と同時に居なくなってしまった。



「……お爺、本当にあんな子どもがあの大木をどうにかしてくれるんか」

若い一人がそう口を開く。
その懐疑に満ちた問い掛けに、爺も意味深に頷いた。
遠目で見る鈍く光る栗毛の髪はゆらゆらと風に揺れ、気の抜けた顔は相変わらずだ。
無駄に高い身長も、着込んだ学生服も、あまりにも違和感が有りすぎる。
しかし、彼は。

「かの裏高野が寄越した子どもだ。ただの子どもではないだろうが……」

――高野山。
紀伊半島の霊場であり、日本仏教の聖地ともいえる場所である。
しかし今回現れた〝閏乃〟という少年は高野山の者ではない。
高野山とは同じ祖でありながら、しかし確固として異質な存在である裏高野の遣いなのだ。
裏高野とは即ち密教であり、宗教でもない。
一種の国家、とでも言えばいいだろうか。
日本の「裏」を統べる巨大な組織のひとつ――創立は平安に遡り、彼の昔から人々の知らぬ世界で暗躍してきた仏教徒が祖であると謂われている。しかし今現代になってもその存在が衰退することはなく、未だ比叡山と並ぶ一大組織として君臨しているのだ。
そんな裏高野からの使者である。
噂によれば、まだ歳端もいかぬ子どもが使者を勤めることもあると謂うのだから、学生服の眩しい少年であっても疑ってはならないのだ。

――なにより今、彼はあの異様な大木を前に冷や汗ひとつ掻いていない。
端から見る限りではあまりにも常軌を逸脱したその場所で、それでも恐れもせず風もないのに枝を揺らす大木を見上げているのだ。

「信じるしかあるまい」


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