うるの黄昏
■猫又




「大僧司様」

ぼ、と灯る松明が燻る庭に、猫でも過ぎたかと思えば猫が口を聞いた。
闇に反する真白の絹を着ても尚、輝かしさのない暗い顔を見れば、なにやら憔悴しきっている。

「……境内で巫女達が愛でていた猫がとうとう化け猫になったかと思えば、お前か」

幾人かが見張りに立つ広い境内は今はしんと静まり返っている。
さやさやと風に鳴る竹の葉だけが耳に心地よい、いい夜であった。

「随分と疲れた顔をしてる」

褐色に金の袈裟を着た上背のある男はやはり、猫、と見まごうた男を見下ろした。
高い母屋の冊、それだけが隔てた距離は、実質、それよりも遠い。
幾人かと見張りは彼に気付いていたが、近寄りも気に止めもしなかった。
なによりこの丑の刻に会話を交わす男ふたりは、この裏高野の中心人物の内のふたりであったからだ――最も、ひとりは裏、ひとりは表の、身分も違う者達ではあったが。

さあさあと鳴る葉音の隙を縫って、白絹の男は口を開いた。

「……弟君は、相変わらずですよ」

それは戯れであり報告であったが、相手の男は眉ひとつ動かさない。
予想していた答えとはさして違いもなかったが、それでも気に食わなかった。

「……また見失ったのか。十宗(としゅう)韋駄天のお前が、情けない限りだな」

蔑みを込めた口調ではなかった。
それよりも呆れに近い――それも白絹の男に向けたものではなく。
それを白絹の男も解っているのが、気安く肩を竦めて弁解した。

「まぁ、確かに私は韋駄天と呼ばれる者ですが、生粋の人間ですからね。火の申し子である彼がちょっと本気を出せば、簡単に振りきられてしまいますよ」

なにせ火は空気中の酸素を伝って移動するのだ。
幾ら人の中でずば抜けて速いとはいえ、空気は抵抗の原因であって、味方ではないし僕でもない。

 
「〝あれ〟はまだ覚醒していない筈だが」

部下の弁明を静かに聞いていた上司は目を細めてそう口にしたが、部下は部下で今の仕事に不満があるらしい。

「覚醒していないのにあの力ですからね、末恐ろしいったらない」

それは上司の実弟の話であったが、白絹の男は遠慮もなにもない。
なにより余り知られていないが、ふたりの男は昔からの級友であったので、そんな遠慮は必要なかったし、互いの関係には邪魔なものでしかなかった。
たまたま産まれた家がそれぞれ仕えられる者と仕える者だっただけのこと。

だからこそ、大僧司である律平は白絹の男、纒(まとい)に事を任せている。
先の双山調和協定を踏まえて、実弟に元々からつけていた監視を入れ換えた。

「あれは見てる限り、火の申し子そのものですよ、律平」

それは決して安寧の知らせではなかったが、律平は口角を持ち上げて笑んだ。

「……和解協定はそれを以て決定したのだ、当然だろう」

なにより秘密は、全てにおいて浸透している。

「あちらの使者は、閏乃と歳変わらぬ者だと聞いたよ」
「比叡山にしてみればそれもただの棄て駒だろう。あれを監視するための、ただの道具だ」

思惑はそれこそ、互いにあるのだ。

「……お前、まだ閏乃のことを名前で呼ばないんだな」

ふと、纒が神妙な顔をして口調を崩した。
それは大僧司に仕える十宗としてではなく、友人としてのようだったが、当の律平は酷薄な笑みを浮かべてなにも応えない。
触れてはいけないことだと解っていても、やらひ素直ではない友人と明け透けに明るい弟を思うと余計な世話も焼いてしまいたくなるのだ。

(閏乃が普通の弟だったら、まだうまく動けたんだろうが)

なにより、そんなことを当人達が望んでいないと解ってはいる。

「比叡山の使者なんぞに戯ばれるんじゃねーぞ、閏乃」

それは独白に近い、月しか聞いていない纒が漏らした忠告であった。



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