うるの黄昏
■人喰い



――都内某所・都立某高等学校、屋上。

焼けつくようなタイルを避け、学校指定のシャツを脱ぎ捨て黒いTシャツのままだらだらと涼んでいる生徒がひとり。

彼の名前は小林 閏乃。
ぴちぴちの十七歳である。
その珍しい名前故に、親しみやすいはずである〝小林〟とは滅多に呼ばれない。

そんな彼が高野山の第六法殿からアパートに帰り着いたのが午前一時過ぎ。
やっと休めると思いきや、「二○○七お笑い結集」の再放送があることを知る。
お笑い芸人の輝かんばかりの芸がエンドレスリピートで三時間。
寝不足である。なので学校に着き早々に屋上を目指した。
授業が始まるまでまだ五分はある。五分あれば眠ることが出来る。ならば寝るしかあるまい。
まだ陽が上がって間もないため、空気自体も灼熱ではない。
寧ろ曇っているお陰で時たま吹く風は涼しいのだ。
雨は嫌いだが、多少の涼しさは雨のお陰と言えよう。

「雨、降らんのかねぇ……」

ぽつり。
独りごちたそれは静かな屋上に消える――。

「残念。梅雨明けしたみたいだよ」

筈だったのだが、独白には何故か返答があった。
閏乃は仰向けで寝かせていた体を起き上がらせ、謎の声がした方へ顔を向ける。

「おはよう」

そこには長身の男子生徒が立っていた。
ひょろりと縦に長いだけの閏乃とは違い、均整の取れた長身である。
Tシャツ姿の閏乃とは対照的に、学校指定の夏服を違反なく着こなしている様子は優等生を思わせるが、そのキラキラとした眼だけは悪戯好きの子どものように輝いていた。

「……えーと」

閏乃は考えた。
彼とは初対面だろうか。
いやもしかしたら隣のクラスの林くんかもしれない。いや、森くんだったか。
しかし突然現れた男子生徒は、閏乃の考えを読んだようににこりと微笑んだ。
そこでやっと気付く。
目の前の彼はとんでもない美少年だ。

「僕は司馬 一朗。今日、この学校に転入してきた」

しば いちろう。

『――近々、比叡山の使者がお前の学校に現れるだろうね』

昨日耳にしたばかりの言葉がフラッシュバックする。
まさか彼が比叡山からの使者だろうか。

(こんな若い男が?)

そこではっと我に返る。

(いけねーいけねー。俺も充分ヤングメーン)

今回の比叡山と裏高野の和平協定に限りだが、こちら側である裏高野の代表も自分のような学生なのだ。
相手方の比叡山の使者だって学生かもしれない。

(俺はてっきり、教師として潜入してくるかと……)

いやまあ、考えても仕方ないか。

「……俺は小林 閏乃。どうぞよろしく」

なのでとりあえず自己紹介することにした。
オトモダチの始まりとして、互いに右手を差し出す。

「あ」

――が、握る前にチャイムが鳴ってしまったので握手の儀式はお流れとなってしまった。
閏乃は結局眠れなかったことに未練を残しながらも、隣りに立つ司馬 一朗を観察することにした。
栗色の髪は長いがきっちりと手入れされ不衛生には見えない。
涼しげな目元は妙に色っぽく、その薄い唇が形成する表情はどこか日本人離れした印象を受ける。

「クラスのホームルームが始まるまで、なにをしていようか迷ってたんだ」
「あぁ、なるほど。それで屋上に?」
「そうなんだ。転校は初めてだったから実は心細くて……。小林くんがいてくれて助かったよ」

――おやぁ?
珍しいタイプだ。自分のことを「閏乃」ではなく「小林」で呼ぶとは珍しい。
名前には言霊が在る。当然、共有者が存在する名字より固有名詞のほうが言霊は強い。
それを踏まえて考えるとして、普通の人間というものは言霊が強いほうに惹かれるものなのだが。

(……名を縛らない為にあえて「小林」を口にしたとか?やっぱし比叡山の?いいや待て待て。焦らなくてもいい。お前の短気は損気だぞ、閏乃)

まさか後から人違いでしたアイターなことにはしたくない。
そんなことが本家の連中に伝わってみろ。バカにされないわけがない。

「ルノくんでいいよ」

そんな訳で違うところから攻めてみた。
もし彼が比叡山の者ならこの自分の印象は最悪だろう――だが、滅多なことを口にして危険を冒すよりはマシだ。

「ルノ?……僕は小林のほうが好きだな」

朗らかで実直過ぎる返事が返ってくる。
ん、と首を傾げてみれば。

「ありふれた苗字ってカッコイイよ」

司馬 一朗くんは、ちょっと変わっている。

――そうして司馬のクラスに導いてみればなんと隣りのクラスであった。
そのベタすぎる結果に、閏乃はペロリと舌を出す。

(クサイクサイ。こいつぁもう、仕組まれてるとしか思えねえな)

しかし司馬本人に直接訊く勇気など微塵も湧かない。
何故ならば、閏乃は随時、臆病風に吹かれた怠け者だからだ。

「ありがとう、小林くん。助かったよ」

だからこそ朗らかに笑う司馬を前に閏乃も笑顔で返す。
普通に会話する分には問題はないが、節々でちょっとおかしな部分が見え隠れする――司馬 一朗とははて、どんな輩であるのか。

(考えたってしゃーねぇけどぉ)

閏乃は再びペロリと舌を出し、司馬をクラスに見送った後、隣りである自分の教室へと足を向けた。

「おぅ、閏乃ぉ」

――と、そこで大変厄介な人物に出くわしてしまった。
でかい図体に赤いジャージ姿の彼は、驚くことなかれ、国語教師である。
何故、彼が厄介なのか。
要約すれば、閏乃の国語の成績が憐れまずにはおれないほど悪いからである。
他の教科は均等して上々の成績を修めているため、国語だけ手を抜いているのではないかと危惧されているわけだ。
しかし閏乃は当然、そんな器用なタイプではない。
ただ単純に国語が苦手なのである。
文章に込められた作為や心を読み取るのが苦手なのだ、昔から。

小学校の通信簿には必ず「他人を気遣うのは上手ですが、まだいまいち気持ちを読み取ることが苦手のようです」と書かれていた。
そしてなにより生粋の理系人間である。
理屈が通るなら良し、通らなければ悪し。
とまぁつまり、閏乃にしてみればどうしようもない辺りを指摘されるわけである。
頭が痛い。

「お前、俺のクラスになにか用か」
「いえ、もう済みましたんで。今から自分の教室に返るところです、はい」

そういえば司馬のクラスはこの国語教師が担任であった。
丁度、ショートホームルーム一分前。タイミングが悪かったらしい。

「今度のテストはどうだ?捗ってるか?」

暗に「国語」というワードを含ませつつ、教師は閏乃に詰め寄る。
閏乃は閏乃で、むさい中年男に詰め寄られる趣味はない。
なので話題を変えることにした。

「そういえば、先生のクラスの転入生と会いました。きれいな男の子ですねえ」

冷や汗を垂らしつつ決死の策。
先程知り合ったばかりの司馬をダシに使うなど申し訳ないと思いつつ、我が身のほうが百倍は可愛い。

(許せ、司馬)

まぁ、ここで彼の名前を出したとて被害を被るわけではないので良しとしよう。
そして教師の反応といえば。

「おおっ司馬を見たか!今期はうちのクラスは豊作だぞ。見てくれのいい司馬をはじめ、運動部のキャプテンも多いからな」

予想以上に良かった。
いや、良すぎたかもしれない。
だからなんだ、と言わずにはおれない発言をしつつ、国語教師はがははと豪快に笑って見せた。
あと三十秒弱。
もうすぐホームルーム開始のチャイムが鳴る。
乗り越えろ、閏乃。
と自らを励ます閏乃を他所に、しかし教師のお喋りは止まらなかった。

「それに転入生も、お前が会った司馬一朗ともうひとり、入ってきたからな」

――え?

教師の言葉と共に、はっと気付く。
でかい図体の裏に潜む微弱な気配。
なんだか今にも消えそうなか弱い空気。

「……はじめまして」

女子、であった。
色白の彼女はどうでもいいと言わんばかりの視線で閏乃を見上げる。
なんだよ、愛想わりいな……ではなくて。

――転入生が、ふたり?

(ちょっとちょっと、冗談キツいって…)

司馬ひとりならば、果たして彼が本当に比叡山からの使者であるか調べるのは容易であるのに。

(この時期に転入生がふたりって、どっちも同じくらい怪しいじゃん)

司馬が比叡山の使者である場合も、今目の前にいるもうひとりの転入生が使者である場合も、或いはどちらも違うかもしれないし、もしかしたらどちらも使者であるという可能性もなくはないのだ。
閏乃は考えた。
考えに考えて、パンクした。

(ええいままよっ!こうなりゃ一人ずつ絞ってくしかあるめぇ)

なので先ずは観察することにした。
目の前、国語教師の背後に隠れるように立つ線の細い女子。
切り揃えられた髪はまさに座敷童のようで、なんとも古風である。
しかし彼女は余りにも細く、か弱い。
こんな体で鬼退治?

(……よし、この子は除外)

決定である。
閏乃はにこりと教師と女子に笑みを向け、自分の教室へと帰る為、ふたりに背を向けた。

「オイ、閏乃?」

国語教師の引き止める声が聞こえるが知ったこっちゃない。
どうせもうすぐチャイムが鳴る。

「――っ!?」

だがその瞬間、閏乃は背筋に鈍く神経を裂かれるような痛みを感じ、固まった。
ぞわわっと背筋が粟立ち、全身の筋肉が収縮する。

(鬼)

鬼の気配と同じものが、閏乃の背中を見つめていた。
いや、普段相手にするよりずっと強力な気配がする。
今、気を抜けば、全身を引き裂かれてしまうような。


――キーンコーン……。

チャイムの音が異様な大きさで耳に突き刺さる。
空気中を支配するかのようなそれはまるで、水の中に居るかのような錯覚に陥らせた。


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