タイム・トラベル
第四話 The bells announce the time
イングランド滞在四日目となると、いろいろ慣れてきた。

 朝ごはんは最初の日とほとんど同じで、トースト一切れとバター、そしてシリアル、それにオレンジジュースとコーヒー一杯だ。見事なほど無駄のないコンチネンタルだけど、そんなにお腹も空かないので十分だ。

 朝食を終えたら、部屋に戻って天気予報を見ながら荷造りをする。今日も曇りだとわかったら、歯を磨いてちょっとだけメイクする。

 そして忘れ物がないか確認して、部屋を出発する。

『ありがとう』

『どうも』

 コンシェルジュのお兄さんにキーを預けてホテルを出て、地下鉄へ向かう。

 その途中だった。

「コンニチハ」

「はい?」

 片言の日本語で、初老の男性に声をかけられた。

『君は日本から来たのかな?』

『え、はい』

『いいところだね。私の息子も今日本に行っているんだ』

 道の脇で、おじいさんはにこやかに話し続ける。

『君は中学生?』

『いえ、大学生です』

 そこはちゃんと否定しておくと、おじいさんは頷く。

『私は日本にもたくさん友人がいるんだよ。ほら』

 ぺらぺらとノートをめくると、そこには日本語でいくつか名前が書かれていた。

『君とも友達になりたいな』

『えと……』

『名前と住所を書いてくれないかい?』

 その辺りで、私は背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。

『……すみませんっ』

 私は踵を返して早足で歩きだす。

 地下鉄の駅まで辿りついて、おじいさんがついてきていないことを確認して大きく息をつく。

「こわかった……」

 まだ動悸が収まらない。

 温厚そうで、優しそうな人だった。だから却って、不審な言葉が胸を引っ掻いた。

 私は胸を押さえながら、急いで地下鉄の構内に入っていった。













 ピカデリーサーカス駅の改札を通ると、リチャードは既に来ていた。

 私をじっとみつめるなり、心配そうに首を傾ける。

「どうかした?」

「どうって?」

「顔が強張ってるよ。何かあった?」

「……うん」

 私は迷いながらも、地下鉄につくまでの出来事を話す。

「親しげに話しかけてくる人には気をつけて」

 話を聞き終わったリチャードは、腕組みをして首を横に振った。

「立ち止まっちゃ駄目。無視しなさい」

「そうなの?」

「うん。いい? ロンドンはね、都会なの。観光地とは違うんだから、サービスで人に声をかけたりはしない。変ににこにこしながら近寄ってくる人は悪意のある人だと思いなさい」

 そういうものなのかな、としょんぼりした思いで頷いていると、リチャードはぽんぽんと私の頭を叩く。

「君が悪いわけじゃないんだから、気にしないの。少なくともこの国で、僕とデニスは君の友達で味方だよ」

 こく、と頷く私の前で、リチャードはちょっとだけ笑う。

「今日はホテルまで送っていくから。気持ちを楽にして、ロンドンを楽しんでいってよ」

 いつまでも落ち込んでいてはいけない。私だって大学生だし、せっかくリチャードが案内してくれるというのだから気持ちを切り替えなければと思う。

「さて、今日は一日ロンドン観光をするんだよね?」

「うん。一日乗り降り自由バスはインターネットで予約したんだ。これ」

「ふむ、オッケイ。じゃあチケットの交換所に行こう。ここからだとトラファルガー広場が近いね」

 私たちは歩いて観光バスの発券所を探した。

「やっぱり工事が多い。どうしてだろう?」

 あちこちの道路で今日も工事をしているのを見て呟くと、リチャードは軽く答える。

「来年オリンピックだからねぇ」

「あ、そっか。ロンドンオリンピック」

「そーそ。今大忙しで準備してるの」

 国を挙げての大工事中だったのだ。私はがんばっている工事のおじさんたちを心の中で応援する。

「バスの発券所、あれだよ」

 発券所は見た目ではわからなかった。インフォメーションとだけ書いてあって、ぱっと見には観光案内所だった。

『いらっしゃい』

『これ、お願いします』

 中に入って行ってバウチャーを見せると、白い髪のおばちゃんは気安く頷く。そのままひょいとバウチャーをカウンターの下に仕舞いそうになるので、私は慌てて声を上げた。

『あっ。待ってください』

『これはこっちが預かるのよ。大丈夫。今本物の券の方をあげるから』

 おばちゃんは動揺する私をなだめて、横のレジのような機械をパチパチと打つ。

『はい。これが乗車券よ』

 そう言って差し出されたのは一枚のぺらりとしたレシートで、私はいささかの不安を覚える。

 そんな私の不安が顔に出ていたのか、おばちゃんは頬杖をつきながら言ってくる。

『バス停はわかる?』

『え、えと』

『いい? こっちから見てごらんなさい』

 おばちゃんは手招きして私をカウンターの端に連れて行くと、そこから窓の外を指さす。

『道の向こう側に、私と同じ赤いジャケットを着ている人が立ってるでしょ? あそこよ』

『あ、ありがとうございます』

『楽しんでいってね』

 思わず頭を下げると、おばちゃんはにっこり笑ってくれた。

 その後リチャードもバスの乗車券を買って、おばちゃんの教えてくれたバス停に向かう。

 そこには既に五人ほどがバスを待っていた。人種も国籍もバラバラな、海外旅行客らしい人たちばかりだ。

「ええと……黄色のバスが着くのは十分くらい後みたい」

 私たちもそこでバスを待っていると、リチャードが左の方を指さす。

「トラファルガー広場があそこで、昨日行ったナショナルギャラリーがあれね」

 私はぐいとネルソン記念碑を見上げて呟く。

「何度見てもおっきい柱だね」

「柱が50メートルくらいで、上に立ってるネルソン提督が5.5メートルだっけ」

「君らがネルソン提督をプッシュしたい気持ちはわかるけど、ちょっとやりすぎじゃないかな」

もし私が提督で、死後もあんな場所に置かれたら泣きそうだ。

「あの高さは日本にはない発想だよ。竜馬も西郷さんも、一応手の届く高さにいる」

「そーお? 君らだって、骨一欠片ごとにお寺建てまくってたりするじゃない」

「お釈迦様は別なの」

 そんなことを言い合っている内にバスが来たので、私たちは観光バスに乗り込んだ。

「二階に行ってみる?」

「うん」

 屋根がない二階に上って座ると、視界がほぼ180度開けた。

「わ……」

 圧倒的な迫力で佇む建物が、横と上を通り過ぎて行く。

 ロンドンに到着した時に車の中で見た街並みは、ただ綺麗だった。今もっと近いところから眺めると、そこは綺麗なだけではなかった。

 高い場所から見ると色々なものが見えた。華やかな彫刻も、早足で道路を渡る人の群れも、そして隠しきれない汚れも。

「……」

 一瞬、言葉を失う。少し、怖いとさえ思ってしまう。

「デニスはね、ロンドンが嫌いだった」

 リチャードがそっと告げた言葉に、私は頷く。

「うん。確かに聞いた。ロンドンはもはや、古き良き国ではないって」

「混じってしまってるからね。変わってもいる。古いものも残ってはいるけれど、新しいものの方が凌駕している」

――正直、東京には失望した。

 以前、東京に旅行して帰って来たデニスは暗い顔をしていた。

――美しかった日本の古き良きものが、もう東京にはほとんどなかったよ。失くしてはいけないものを、あの街は失くしてしまった。

 今、ロンドンの町を見下ろして思う。

 この街は東京に比べれば古いものを大事にしている。だけど、デニスの愛するアンティークの箱のような繊細な美はもはやない。

「リチャードはどう思う?」

 冷たい冬の風を半身に受けながら、私は横を振り向く。

「ロンドンは好き?」

 その問いに、リチャードは私の目を見返しながら答えた。

「好きだよ」

 ためらいなく答えてから、リチャードは微笑む。

「僕はこの街で生まれて、この街で育って、そして今ここで生きることを選んでるんだから」

 リチャードはつと覆いかぶさるような建物を見上げる。

「じっとみつめて、よく考えて。それでどう評価するかは君の自由だ」

 私たちを乗せたバスは船の停留所で止まった。

「さて、せっかくなのでテムズ川クルーズでロンドン塔まで行こう」

「うん」

 バスの無料券はクルーズ券もついてきたので、乗っていくことにした。

 クルーザーに乗り込むと、それはまた観光客でごった返していた。ただ、東洋人は意外と少ないようだった。

「あれが大観覧車。ロンドン・アイ」

「なんだかかわいい乗り物だね」

 リチャードが川の右辺を指すと、そこにはロンドンを見下ろす大観覧車があった。楕円形の透明な乗り物が、ゆっくりと登っては降りてくる。

「普段は天気がよくないからロンドン全部は見えないこともあるけど、夜景がきれいだよー」

「デートスポットって感じだもんね」

「でも団体で乗るので、あんまりいちゃいちゃできません」

「君ら人がいてもいちゃいちゃしてるじゃん」

 夜なんて、道のど真ん中でキスしている人を見た。イングランドの人はそんなに開けっぴろげではないと思っていたが見事に違っていた。

「リチャードとか常連っぽいもんな……」

「ん? 何の常連?」

「ううん、なんでもない」

 私は首を横に振って、クルーザーの発車時刻を確かめるために腕時計を見下ろした。

「智子さんは、僕を無節操なナンパ男だと思ってやしないかい?」

「なっ。そこまでは思ってないよ」

 慌てて顔を上げると、リチャードはむすっとした様子で私を見下ろす。

「ちょっとは思ってるんだ」

「な、ナンパくらいはしたことあるんじゃないか……と」

「ありません」

「路上でキス……」

「僕はやったことない」

 本当かなぁ、と私が首を傾げていると、リチャードは私の髪をわしゃわしゃとかきまぜた。

「智子さんのばーかー」

「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」

「僕のピュアな心をずたずたにしたー」

 私は少し考えて告げる。

「ごめん」

「あれ、素直」

「考えてみれば、私リチャードのことあんまり知らないし」

 何せメールで三年間文通しただけで、直接会ったのは今回で二回目だ。

「うん。まずは知ることだよねー。どんどん近付いて。ウェルカムだよ」

 リチャードはにこにこし始める。よかった、機嫌は直ったようだ。

 しばらくしてクルーザーが動き始める。英語で案内されているのはわかるけど、残念ながら私の英語力ではあまり聞きとれない。

 周りの観光客が笑っているところを見ると何やら面白いことを話しているようなのだが、笑いどころがわからない私にはちょっと疎外感がある。

「気にしないでいいよ。英語のジョークやウィットがわかるようになったら、君はもうネイティブだから」

 リチャードはぽふ、と私の頭を叩いた。

 河はゆったりと流れる。急流の多い日本の川とは違って、幅が広い。

「あんまり綺麗じゃないでしょ」

 リチャードの言葉に、私は頷いていいか迷う。

「これでも街中を流れる川としては世界で有数の綺麗な河なんだけど。それでも生活用水で運河だからね」

 古来より大河の側に文明は発達してきた。テムズ河もその一つなのだろう。

「でもこの河のおかげで今のロンドンがあるんだね」

「そういうこと」

 人が住む遥か前から川は流れていた。その周りに人が街を作った。人によって汚染されて、浄化されて、今でも流れている。

 タプン、と船を鈍く叩く川を、私はぼんやり眺めていた。
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