タイム・トラベル
第二話 The good old country
イングランドで迎えた初めての朝は、あいにくと爽やかではなかった。
「ああ、降ってる」
朝六時半過ぎ、もぞもぞと起き上がって窓の外を覗いたら、既に雨が降っていた。
この国は雨が多いことでも有名だ。ある程度覚悟はしていたので、私は多少の諦めと共に朝食へと向かった。
グランドフロアーにあるレストランに入って、私は朝食券を見せる。
『ここだよ』
ウェイターのお兄さんは少し歩いてくるりと振り向くと、バイキング方式になっている料理を示して、あっさりと去っていった。
どうやら好きな席に座って好きなものを取ればいいらしいと、私はトレイを手に取る。
オレンジジュースをコップに入れて、無造作に積まれているトーストを一切れに一個のバターを皿に乗せて、さらになぜか四種類もあるシリアルの中から何だかフルーティなものを選んで牛乳をかける。
ふとベーコンのいい匂いがするのに気づいて、引き寄せられるようにしてそちらに足を向ける。
別のコーナーに湯気を立てているベーコンや卵があった。たんぱく質が欲しくてトングを探すけど、なぜかここにはそれがなかった。
『何か要る?』
どうしようかな、とその場で止まっていると、カウンターの向こうから黒髪のお兄さんが声をかけてくる。
『これください』
『オッケー』
私がベーコンを指さすと、お兄さんは気安く頷いて皿にベーコンを乗せた。
山盛りにされて、ベーコンばかりこんなに食べられるかな、と不安に思った時だった。
『4ポンド50ペンス』
「え?」
お金取るのかい、と軽く目を見開いて驚く。
しかも4.5ポンドって、日本円に換算すると600円くらいだ。ベーコンばかりでそれはあまりに高くないかねお兄さん、と思わずじっとウェイターさんの顔を眺める。
しかし、お皿に取ってまでもらって、それやめときますとも言えない。というか、やめるって英語でどう言えばいいのか咄嗟にはわからない。
『……ありがとうございます』
『いえいえ』
結局ありがたくお金を払うことになって、私はがくりと首を垂れる。
歩き始めて一度振り返ってみると、隅に値段表が書いてあった。どうやら温かいものは有料らしい。早速失敗してしまったと思いながら、私は重くなったトレイと軽くなった財布を持って席についた。
朝食は、まあおいしかった。ベーコンが少し重くて全部は食べられなかったけれど。
今度はちゃんと無料かどうか念入りに確認してコーヒーを飲んでから、レストランを後にした。
部屋で歯をみがいていると、ノックの音が聞こえた。
「おはよー。よく眠れた?」
リチャードはグレーのセーターにジーンズというラフな格好で、靴もスポーツシューズを履いていた。昨日は仕事帰りだったらしくスーツ姿だったけど、これが彼の私服らしい。
限られた服しか持ち歩けない貧乏旅行者としては、彼くらいのほどほどに崩した格好の人といる方がありがたい。
「トラッドは着ないんだね」
「んー? いや、持ってはいるけどさ」
伝統的なトラッドスタイルで、常に上質な革靴を履いていたデニスをちらりと思い出して言うと、リチャードはにこっと笑う。
「堅い服は堅苦しい時に着ればいいの。楽しみたい時は楽しめる格好が一番」
「それもそっか」
私はこくんと頷いて、洗面所に向かおうとする。
ふと私は顔を押さえて言う。
「あー……リチャード」
「なぁに?」
「ちょっと待って。今からその……塗装工事をするから」
メイクというには気恥ずかしいほどの下手さ加減なので、やや小声で言ってみる。
リチャードは少し考えて、ぷっと吹き出す。
「ははっ。いーよ、ごゆっくりどうぞ。塗装工事」
「うん、ごめんよ」
ぷぷっと笑いながら、リチャードはベッドサイドに頬杖をつく。
「君もメイクするようになったか。そうだね、もう大学生だもんね」
洗面所に戻る私の後ろの方で、リチャードが感慨深げに呟くのが聞こえた。
「よし。工事が成功したところで行こうか」
大急ぎでメイクした後、バックパックを持って部屋を出た。
『ありがとう。よい旅を』
「せ、センキュー」
コンシェルジュにキーを預けると、インド移民系のお兄さんはにこやかに手を振っていた。
駐車場まで来て助手席に乗り込むところで、私は短く声を上げる。
「レクサスだ」
「あれ? 知ってるの?」
眠かったから昨日見た時は気づかなかったけど、リチャードの車は日本車だった。
「日本車ってイングランドでは評判いいんだよー。僕もこれ、お気に入り」
「ふーん」
「ロールスロイスとか乗ってきてほしかった?」
「いや。君は私をどこへ送迎するつもりなの」
私にどう反応しろというのか。傷つけるのが怖くて近寄ることもできやしない。
いつまでも立っているわけにはいかないので助手席に乗り込む。
朝のロンドンは昨日とは少し印象が違っていた。薄暗くて、雨が降っているからかどこか閉塞的だった。
抑えた色調だから目立つものも少ない。建築規制をして同じような建物なのも、今日は妙に味気なく感じる。
暖房が効いて、あまり揺れない車内から見ると、まるで現実味のない光景だった。おもちゃの家を覗き込んでいるような、そんな気分になる。
そういえばいつも騒々しいくらいのリチャードも何も言わないな……と考えていると、頭の裏側から眠気がもたげてきた。
デニスは三年前の夏に日本に留学して、私の家にホームステイしていた。
私は十六歳、デニスも同い年。ただデニスは非常に優秀だったらしく、飛び級して既に大学生だった。
――ごちそうさまでした。おいしかったです。
ブルーブラッドを自負して、何をするにも礼儀正しく慎ましやかだったデニスは、来日時から既に流暢な日本語を操っていた。
――明日から島根に行ってきます。明後日の夜に戻りますが、夕食は要りません。
――島根って、どこに行くの?
――出雲大社です。
高校生の私は出雲大社の歴史的意味も知らず、きょとんとしていた。
二日間もかけて田舎の神社に行くなんて、物好きな外国人もいたものだと思っていた。
夕食後にデニスの部屋を訪ねたら、彼は塵一つ落ちていない床にたくさんの資料を並べて見下ろしていた。
――これ、全部出雲大社の資料?
――そうだよ。
足の踏み場もない紙の束に、私は部屋に入ることもできずに立ち竦む。
――観光に行くなら、京都とかを見ればいいのに。
――京都は「都」だ。
眉一つ動かさず、デニスは座ったまま私を見上げる。
――僕の求めるものじゃない。古き良きものが日本にはたくさんあるから、僕はこの国に来たんだ。
――古き良きもの?
――そう。心の故郷があるところ。それがあるのは田舎だ。
デニスの言うことはいつも難しくて、私はなかなか理解できなかったのを覚えている。
――わからない。どういうこと?
だから思った通りのことを答えた。頭の軽い子だと思われても仕方ないくらいのあっけなさだったと思う。
――そう……。
けどデニスはそんな答えばかりする私を嗤ったりしなかった。その意味で、彼は真に高貴な人間だったのかもしれない。
禁欲的な眼差しでデニスは細かい字が無数に印刷された資料を見下ろしてから、つと顔を上げる。
――智子。君の故郷は?
――私はここだよ。今住んでるところ。デニスは?
そこで少しだけ目を細めて、デニスは呟いた。
――僕は……コッツウォルズのボートン・オン・ザ・ウォーター。亡くなった祖父の家がそこにあったんだ。
デニスがそう言ったものだから、私は次の日に図書館に行ってコッツウォルズの本を探した。
田舎の図書館だったから書架には並んでいなくて、司書さんに相談して書庫から関係する本を出してもらった。
そして私が見たのは、どこか懐かしい気配のする色合いの家々だった。
作りも色彩も日本人の私には全く馴染みがないはずなのに、そこは確かに故郷の香りがしていた。
「ああ、降ってる」
朝六時半過ぎ、もぞもぞと起き上がって窓の外を覗いたら、既に雨が降っていた。
この国は雨が多いことでも有名だ。ある程度覚悟はしていたので、私は多少の諦めと共に朝食へと向かった。
グランドフロアーにあるレストランに入って、私は朝食券を見せる。
『ここだよ』
ウェイターのお兄さんは少し歩いてくるりと振り向くと、バイキング方式になっている料理を示して、あっさりと去っていった。
どうやら好きな席に座って好きなものを取ればいいらしいと、私はトレイを手に取る。
オレンジジュースをコップに入れて、無造作に積まれているトーストを一切れに一個のバターを皿に乗せて、さらになぜか四種類もあるシリアルの中から何だかフルーティなものを選んで牛乳をかける。
ふとベーコンのいい匂いがするのに気づいて、引き寄せられるようにしてそちらに足を向ける。
別のコーナーに湯気を立てているベーコンや卵があった。たんぱく質が欲しくてトングを探すけど、なぜかここにはそれがなかった。
『何か要る?』
どうしようかな、とその場で止まっていると、カウンターの向こうから黒髪のお兄さんが声をかけてくる。
『これください』
『オッケー』
私がベーコンを指さすと、お兄さんは気安く頷いて皿にベーコンを乗せた。
山盛りにされて、ベーコンばかりこんなに食べられるかな、と不安に思った時だった。
『4ポンド50ペンス』
「え?」
お金取るのかい、と軽く目を見開いて驚く。
しかも4.5ポンドって、日本円に換算すると600円くらいだ。ベーコンばかりでそれはあまりに高くないかねお兄さん、と思わずじっとウェイターさんの顔を眺める。
しかし、お皿に取ってまでもらって、それやめときますとも言えない。というか、やめるって英語でどう言えばいいのか咄嗟にはわからない。
『……ありがとうございます』
『いえいえ』
結局ありがたくお金を払うことになって、私はがくりと首を垂れる。
歩き始めて一度振り返ってみると、隅に値段表が書いてあった。どうやら温かいものは有料らしい。早速失敗してしまったと思いながら、私は重くなったトレイと軽くなった財布を持って席についた。
朝食は、まあおいしかった。ベーコンが少し重くて全部は食べられなかったけれど。
今度はちゃんと無料かどうか念入りに確認してコーヒーを飲んでから、レストランを後にした。
部屋で歯をみがいていると、ノックの音が聞こえた。
「おはよー。よく眠れた?」
リチャードはグレーのセーターにジーンズというラフな格好で、靴もスポーツシューズを履いていた。昨日は仕事帰りだったらしくスーツ姿だったけど、これが彼の私服らしい。
限られた服しか持ち歩けない貧乏旅行者としては、彼くらいのほどほどに崩した格好の人といる方がありがたい。
「トラッドは着ないんだね」
「んー? いや、持ってはいるけどさ」
伝統的なトラッドスタイルで、常に上質な革靴を履いていたデニスをちらりと思い出して言うと、リチャードはにこっと笑う。
「堅い服は堅苦しい時に着ればいいの。楽しみたい時は楽しめる格好が一番」
「それもそっか」
私はこくんと頷いて、洗面所に向かおうとする。
ふと私は顔を押さえて言う。
「あー……リチャード」
「なぁに?」
「ちょっと待って。今からその……塗装工事をするから」
メイクというには気恥ずかしいほどの下手さ加減なので、やや小声で言ってみる。
リチャードは少し考えて、ぷっと吹き出す。
「ははっ。いーよ、ごゆっくりどうぞ。塗装工事」
「うん、ごめんよ」
ぷぷっと笑いながら、リチャードはベッドサイドに頬杖をつく。
「君もメイクするようになったか。そうだね、もう大学生だもんね」
洗面所に戻る私の後ろの方で、リチャードが感慨深げに呟くのが聞こえた。
「よし。工事が成功したところで行こうか」
大急ぎでメイクした後、バックパックを持って部屋を出た。
『ありがとう。よい旅を』
「せ、センキュー」
コンシェルジュにキーを預けると、インド移民系のお兄さんはにこやかに手を振っていた。
駐車場まで来て助手席に乗り込むところで、私は短く声を上げる。
「レクサスだ」
「あれ? 知ってるの?」
眠かったから昨日見た時は気づかなかったけど、リチャードの車は日本車だった。
「日本車ってイングランドでは評判いいんだよー。僕もこれ、お気に入り」
「ふーん」
「ロールスロイスとか乗ってきてほしかった?」
「いや。君は私をどこへ送迎するつもりなの」
私にどう反応しろというのか。傷つけるのが怖くて近寄ることもできやしない。
いつまでも立っているわけにはいかないので助手席に乗り込む。
朝のロンドンは昨日とは少し印象が違っていた。薄暗くて、雨が降っているからかどこか閉塞的だった。
抑えた色調だから目立つものも少ない。建築規制をして同じような建物なのも、今日は妙に味気なく感じる。
暖房が効いて、あまり揺れない車内から見ると、まるで現実味のない光景だった。おもちゃの家を覗き込んでいるような、そんな気分になる。
そういえばいつも騒々しいくらいのリチャードも何も言わないな……と考えていると、頭の裏側から眠気がもたげてきた。
デニスは三年前の夏に日本に留学して、私の家にホームステイしていた。
私は十六歳、デニスも同い年。ただデニスは非常に優秀だったらしく、飛び級して既に大学生だった。
――ごちそうさまでした。おいしかったです。
ブルーブラッドを自負して、何をするにも礼儀正しく慎ましやかだったデニスは、来日時から既に流暢な日本語を操っていた。
――明日から島根に行ってきます。明後日の夜に戻りますが、夕食は要りません。
――島根って、どこに行くの?
――出雲大社です。
高校生の私は出雲大社の歴史的意味も知らず、きょとんとしていた。
二日間もかけて田舎の神社に行くなんて、物好きな外国人もいたものだと思っていた。
夕食後にデニスの部屋を訪ねたら、彼は塵一つ落ちていない床にたくさんの資料を並べて見下ろしていた。
――これ、全部出雲大社の資料?
――そうだよ。
足の踏み場もない紙の束に、私は部屋に入ることもできずに立ち竦む。
――観光に行くなら、京都とかを見ればいいのに。
――京都は「都」だ。
眉一つ動かさず、デニスは座ったまま私を見上げる。
――僕の求めるものじゃない。古き良きものが日本にはたくさんあるから、僕はこの国に来たんだ。
――古き良きもの?
――そう。心の故郷があるところ。それがあるのは田舎だ。
デニスの言うことはいつも難しくて、私はなかなか理解できなかったのを覚えている。
――わからない。どういうこと?
だから思った通りのことを答えた。頭の軽い子だと思われても仕方ないくらいのあっけなさだったと思う。
――そう……。
けどデニスはそんな答えばかりする私を嗤ったりしなかった。その意味で、彼は真に高貴な人間だったのかもしれない。
禁欲的な眼差しでデニスは細かい字が無数に印刷された資料を見下ろしてから、つと顔を上げる。
――智子。君の故郷は?
――私はここだよ。今住んでるところ。デニスは?
そこで少しだけ目を細めて、デニスは呟いた。
――僕は……コッツウォルズのボートン・オン・ザ・ウォーター。亡くなった祖父の家がそこにあったんだ。
デニスがそう言ったものだから、私は次の日に図書館に行ってコッツウォルズの本を探した。
田舎の図書館だったから書架には並んでいなくて、司書さんに相談して書庫から関係する本を出してもらった。
そして私が見たのは、どこか懐かしい気配のする色合いの家々だった。
作りも色彩も日本人の私には全く馴染みがないはずなのに、そこは確かに故郷の香りがしていた。