月は紅、空は紫
 仁科道場による稽古は、清空が想像していたものに比べれば極めてまっとうなものであった。
 素振りから始まり、型と呼ばれるあらかじめ決められた動作を組太刀にて交わす稽古を行う。その後は竹刀を用いた打ち込み稽古に移行する。

 この時代では、素振りや型の稽古には木刀を使用していたのだが、お互いが打ち込み合う稽古には、世に知られた柳生新陰流の開祖である柳生石舟斎が開発したとされる竹を組み合わせた刀に布で縫われた袋を被せる、いわゆる『嚢竹刀(ふくろしない)』というものが用いられていた。
 以降の時代になれば、防具が発達を見せて稽古には面に籠手、胴を身に着けて竹刀で打ち込み稽古をするようになるのだが、それが常態となるのは幕末に至ってからである。
 江戸中期に於いては、剣術の打ち込み稽古といえば嚢竹刀を用いて、素面、素籠手にて互いを打ち合うというのが当然であった。

 とはいえ、竹刀が開発される以前の時代に比べれば格段に安全になったといえる。
 真剣を振るう剣士の腕力というものは思いの外強い。
 いかな木刀といえども、本気で打ち込めば骨のひとつや二つは容易く砕けてしまうのだ。
 竹刀を用いることによって、この時代の剣客を目指す者たちは安全に稽古に励むことが可能となっていた。

 とはいえ、竹刀とはいえ軽度な怪我はつきものである。
 打ち込み稽古を終えて、仕上げの高弟同士の試合稽古が行われる頃には、見取り稽古として周囲を取り囲む門弟の中には打ち身となった部分に膏薬を塗り付ける光景も見られた。

「この地に逗留する数日の間は、出来る限り稽古を見学させて頂こうと存じます――」

 この日の稽古を終えてから、仁科にそう言い残して清空は仁科道場を後にした。
 やはり、初日から門弟に事件のことを聞き出せるものではない。
 場合によっては、長期戦も覚悟せねばならなかった。
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