これでおしまい




息継ぎの仕方を忘れてしまった魚のようだ。

或いは、自分が魚だったことを思い出しては、地上での息の仕方を忘れてしまったひと。



もう随分と前から、橘がまともな食事をとっているところを見ていない。
否、食事はとっている。
真鶸や子供達を心配させないようにと、いつものように好物の猫まんまを口へと運び、豪快に笑っては僕に叱られる。僕のスープを横から奪ってまで飲んで、子供たちを笑わせる。

その後、こっそりとトイレに籠って全て吐いてしまっているのを、僕は知っている。

眠っているときも、まるで今の今まで呼吸をしていなかったかのように、呼吸の仕方を唐突に思い出したかのように、大きく息を吸って、それがなかなか整わない。
息苦しさに目覚めることもあれば、眠ったまま荒い呼吸を続けていることもある。
白いシーツの上でのたうち回る姿は、まるで魚のようだった。
本物の魚など、見たこともないのに。

それでも橘は、子供の添い寝だけは絶対にやめなかった。
添い寝を卒業した大きな子供たちが、そっと扉を開けて言う。

「一緒に寝てもいい?」

僕が何かを言う前に、橘は顔全部で笑って、両手を広げて、おいでと言う。
彼女が苦しみだして、もし眠っていた子供が目を覚ますようなら、僕が子供を抱いて部屋の外へ出た。
小さくて暖かな体を抱きしめながら、彼女の苦しみが終わるのを待つ。

暫くしてから戻れば、目覚めた橘が起き上がって、照れ笑いをして僕から子供を受け取る。
僕の腕の中で眠ってしまった子に、そっと謝罪のキスを落として、僕と子供を、抱き合って眠る。

幸福な絵だった。

荒廃した地上の旅を今は休止して、切迫した環境にある子供たちを引き取ってきては、面倒を見る日々が続いていた。
晴れ間はなくとも、穏やかに生きることはできるのだと知った。
子供たちが、橘にまとわりつく。
僕の腕を引く。
橘が、僕に笑う――幸福な絵だ。恐ろしいほどに、色の薄い。







――パ、タ……。

血が垂れる。
濁った色だ。
恐ろしいことに、血の色には見えないほど。

「……橘」

シーツの上に落ちたそれを茫洋と見つめる彼女を呼ぶ。
彼女は少しだけ肩を怯えさせて、すぐに僕を振り向いた。

「生理の血で汚しちゃった」

へらりと笑う。
君はいつから、そんなに頬がこけてしまっただろう。

「洗わなきゃね、君が」

僕が言えば、橘が、はは、と笑う。

ねえ、橘。
君に生理が来ないこと、僕が知ってるって、君も知っているのに。
先の人道を無視した人体実験のせいで、君の身体にはもう、そういったものは巡ってこなくなってしまった。
そんなことを取り繕う余裕もなかったの?


「……おとーさん」

一番末の、一番の甘えたが、僕のズボンの裾を引く。

「ん?」

屈んで、彼と視線を合わせる。
こうして、子供と視線を合わせる僕が好きだと、彼女が言ったから。

視線を合わせると、その瞳がゆらゆらと大きく揺れていた。

「おかーさんがいないの。どこにも」

ぞっとする。
なんて恐ろしい言葉だろう。
僕の心臓が、じわりと冷や汗を掻いた。

「お母さんなら、ちゃんといるよ。お腹が痛いってさっき言ってたでしょ」
「おといれ?」
「きっとね」
「びょーき?だいじょうぶ?」
「……お昼ご飯を食べすぎたせいだよ」
「そっかあ」

屈託なく笑うこの笑顔に、橘がどんどん追い詰められていることも、僕は知っている。
この笑顔を、彼女は――。





パタ……。

パタタ……。

橘の身体に縦横無尽に走る傷痕が、まるで縫合された糸を少しずつ抜かれていくように、解けていく。
ぷち、ぷち、ぷち、と繋ぎ止められたはずの皮膚が、小さく弾けて、塞がった傷痕を再び齎そうとする。

白いシーツに、赤黒い血が垂れているのが、目を閉じていてもわかった。
痛みに呻くこともなくなった。
今夜は、子供達も誰もいない夜なのに。

僕と君の、二人だけなのに。

「ひばり」

泣きそうな声。
泣いているの?

「ひばり」

起こす気も、呼ぶ気もないくせに。
まるで確認するように、まるで彼女の愛を刷り込むように、何度も。

何度目かの僕の名前が闇に消えてから、彼女がそっとベッドから降りた。


ひたひたと、裸足の、小さな足音がする。

その足音を、幸福のさなかで聞いたことがあった。
冷たい夜だった。
体を繋げたあと、夜中に起きた彼女がトイレに抜け出し、慌てて暖かなシーツの中に飛び込んでくる。
僕は彼女の足音で目を覚まして、彼女が飛び込んでくるのを待っていた。
冷たくなった体を抱きしめて、キスをして、温めて、ふたりで、微睡に転がり落ちる。

あの時と同じ足音が、僕へと絶望を呼ぶ。


――行ってしまうの、橘。

――子供達を置いて。

――僕を置いて?

たくさんの子供達に囲まれて、そうすれば僕はもう、寂しくないからって。
君が消えても、僕は独りにはならないからって。

――ばかな橘。

――君がいなければ、あれほど愛しい子供達も、まるで人形のようなのに。



「……行ってしまうの、橘」











何度も何度も不規則にワープして、これ以上はないというほど複雑に飛んできた頃には、体はもう身体といえるほど形を保っていなかった。

ワープするたび分解されて再構築されて、それを繰り返すうちに、分解されていくつものパーツをどこかへ落としてきては未完成のまま再び再構築。

私はろくに言葉も話せなくなった身体で、太い根の間に体を置いた。

ここは、雲雀と一番最初に木を植えた場所だ。
元々それなりのものを探してきて植えたために、今はとても立派な姿に育っていた。
場所もよかった。桐生が愛していた、あの美しい海が広がる土地だ。
海が汚染されていなければ、土の汚染もないかもしれないと、言ったのは奥田だ。
ならそこに植えようと短絡的に言った私の望むように、雲雀がしてくれた。

桐生の墓標の代わりだと、わかってくれていたみたいに。


(ああもう、雲雀に会いたくなった)

各地で旅を続けながら、私は身寄りのない子供達を引き取っては育てた。
私はもう母親にはなれないからと、白々しくも傲慢な嘘を吐いて。

雲雀の周りが、光に満ちている。
未だに晴れ間は少なくとも、私たちが出会った頃のように皆無ではなくなかった。
大気中の風で、雲が動くようになった。

けれど曇り空が続いても、雨が続いても、雲雀の周りは、子供達の放つ希望で満ちている。
そのためだけに、私は子供達を慈しんできた。

その罰だろう。
思っていたよりもずっと、〝時間〟は早くやってきた。

はじめに、食べ物を受け付けなくなった。
食べたいのに、腹は空くのに、体が拒絶するように、すぐに吐き出してしまう。
次には、縫合の痕が綻びだした。切り取り線がぷちぷちと切れていくように、そこから血が膨れ上がる。

急激に体重が落ち、息もうまくできないことが続いた。
汚染された海の水を飲んでも、あまり効果がなくなった。

この星が変わろうとしている。
私の身体に決定的に効いた、海の毒性が、薄れてきている――。

変わりゆくこの星に、私はいらないのだと、告げられていた。


それに気付いた時、雲雀を置いていくことを決めた。
あの暖かな場所で、あの穏やかな場所で、もう二度と修羅と呼ばれることなく、生きてほしいと。

(……馬鹿だな。修羅の雲雀も、どんな雲雀だって、好きなのに)

もう、喉の奥から、まるで枯れた風のような音しか出ない。
見上げた空も、木の枝も、うまく見えない。
片目はどろどろに溶けて、もうどこにあるかもわからない。

膨張した腹と胸が無様に、それでも呼吸と共に上下する。

(会いたい)

この醜い姿を見られたくなくて、去ったというのに。




「馬鹿な橘」

静かな声。
私が焦がれて焦がれて、手にしたあとも消えてしまうことが恐ろしかった、大切な人の、声。

「……そう思うなら、どうして離れたの」

こんな姿、見せられるわけないでしょう。
私もう、あんたの名前も、呼べないよ。

「君が僕を呼べないなら、代わりに僕が君を呼ぶ」

帰ってよ。
こんなところまできて。
子供達を置いてきたりして。

「ちゃんと、ベビーシッターは呼んでから出てきたよ」

カサ、と足音がする。
雲雀の顔が、そっと近づいてきた。

「……」

汚れるよ、と言おうと思ったのに、気の抜けた口笛のような音が、破けた喉から飛び出ただけだった。
雲雀の手が、血だらけの内臓だらけの私に、そっと伸びてくる。
びしゃりと、私が流した血の海に、雲雀は躊躇なく、膝を着いた。

「右足はどこに捨ててきたの」

言われて、なくなったのは右足だったかと気付く。
通りで、歩くだけで酷く傷んで、つらかった。

「言えば、僕が抱いてここまで連れてきたのに」

それじゃ意味ねーんだよ、ばか。

「馬鹿っていうほうが馬鹿でしょう」

雲雀が笑ってる。
この醜い姿が少しでも闇に隠れるようにと夜を選んだのに。

ああ、今が夜でよかったと、思うのに。

(雲雀の顔が、良く見えない)

片目がなくなって残った目玉の視力も随分と落ちてしまったらしい。

雲雀の腕、随分と軽くなった私を抱き締める。

確かに痛いのに、麻痺していて、痛みとか、もうどうでもよかった。
雲雀が汚れてしまうとか、そんなことも、どうでもよかった。

(嬉しい)

こんな体でも、抱き締めてもらえたことが、恐ろしいほどに、嬉しい。
どうしてきたのなんて、帰ってよ、なんて、何一つ本気で言ってない。

お別れするのだと、口ばかりで。

(こうして、追ってきてもらうのを、望んでた)




「お別れはしない。君は僕のものだ」

そうだよ。私はお前のもので、お前は私のものだ。
でも、お別れはやってくるんだよ。

ない目玉から、涙が零れ落ちた。

(お別れなんか、したくないのに)




「ばかだな……、ひばり」

声が出た。
もう二度と、出ないと思っていたのに。
でも喋ったら、破れたところからごぽりとたくさんの血が流れてしまった。

「馬鹿だよ。君も、……僕も」

雲雀の指が、そっと私の首に回る。

もう、どろどろのぐちゃぐちゃで、見るに堪えない様相をしているだろうに。
私から目を逸らすことなく、雲雀は、私を見てる。

首にまわされた指に、そっと力がこもった。

「君は、僕の手で殺してあげる」

(君を殺すのは、君を穢した研究でも、海の毒でもない)

流れてくる雲雀の想いが、空洞になった私の身体を満たしてくれる。



――うん。


「雲雀」

その瞳の輝きだけを目に焼き付けて。

「わたしをころして」







< 1 / 3 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop