それは誰かの願いごと




不思議なことに、あれから、諏訪さんと浅香さんの結婚話はどこでも噂されることはなかった。
社内一の有名人の二人だから、誰かが知れば、あっという間に広がるに決まってる。
だからきっと、二人が誰にも知られないよう、慎重に事を進めているのだと思っていた。

二人のことを考えるとき、わたしの心情が落ち着くことはなかったけれど、その心のざわつきも、ほんの少しだけは、慣れてきつつあった。

こんな風に、いつか諏訪さんが結婚してしまったときも、いつの間にか慣れていくのだろうか。

それはそれで寂しいとも感じてしまうのだから、”片想い” というものは、本当に厄介だ。


そんな片恋の矛盾をひしひしと感じていたある日のこと、わたしは、社内でまたあののど飴の男の人と出会った。

昼休みを利用して部内の書類を運んでいたときだ。
ちょうど人事課のフロアを横切っているところで、廊下とオフィスの境あたりに、ちょっとした人垣を見かけたのだ。
人の集まりには特に興味はなかったものの、そばを通り過ぎる際、なんとなく目をやった先に、あの男性がいた。

ちょうど男性もふとこちらに視線を流したので、ばっちり目が合ってしまう。

「あ」

男性が、はっきりと声に出してびっくりしていた。

わたしも無視することはできず、ささやかに会釈してみせた。
すると男性が人の輪から抜け出して、わたしに歩み寄ってくる。必然的に、わたしも足を止めた。

「こちらにお勤めだったんですね」

にこやかに、仕事上というよりはどこか親しさも含ませて話しかけてくる。

「こんにちは。そうなんです。……でも実は、この前駅でお会いしたとき、以前どこかでお見かけしたような気もしていたんですよ」

わたしの返事に、男性は「そうでしたか」と、意外そうに答えた。
そしてハッと思い出したように、

「ご挨拶がまだでしたね…」

と言いながら、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した。









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