それは誰かの願いごと
カツコツカツコツと、この靴でこんなに走ったことはなかったけれど、その音がうるさくても、すれ違う人の視線を集めても、肩からバッグがずれ落ちそうになっても、わたしは、いつものオフィスビルのエントランスに入るまで、逃げ続けたのだった。
やがてエントランスの自動ドアをくぐると、息がきれて、心臓がうるさくて、そのままオフィスに戻るのも気が引けて、エントランスの隅の背が高い観葉植物に隠れるようにして休憩した。
エントランスホールには誰でも休める大きなソファがいくつも設置されていたけれど、わたしみたいな若い社員が使うべきではないと躊躇いがあったのだ。
隠れたまま、コソコソと、バッグからペットボトルのお茶を取り出して喉を潤す。
常温でぬるくなっていたけれど、乱れた呼吸を慰めるにはじゅうぶんだった。
でも……
『郁弥――――』
あの浅香さんの声が、恋人を呼ぶ仕草が、そしてそれを当たり前のように受け入れる諏訪さんが、頭から出ていってくれないのだ。
グッ、と、見えないロープで体じゅうを縛りあげられたような、この息苦しさは、きっと、ここまで走ってきたせいじゃない。
………やっぱり、良いことのあとには悪いことがあるんだ。それも、とびっきりの。
わたしはペットボトルを持たない方の手で、そっと頬に触れた。
さっき、二度もつねったのに…
せっかく蹴人くんが教えてくれたプラマイ0の法則だったけど、
自分でわざと作った ”悪いこと” は、あんまり効果がなかったようだ。
わたしは、エントランスで身を隠したまま、
失恋の痛みを噛み締めるしかなかった―――――――