Crazy for you ~引きこもり姫と肉食シェフ~
「何、そんなに難敵なの? まさか男?」
「そんな事あるか」
「ああ、リコか。きゃあ会ってみたーい、たけちゃんを振る女なんてー!」
「振られてはいない」
「あら、じゃあ恋人?」
「そうだよ、って、クニちゃんに報告する義務はない」
「クニちゃんって呼ばないでっ!」
「用は済んだだろ、もう帰れ」
「リコちゃんってどんな人?」
「見舞いに来たんだろ? 俺は元気だ。もう来なくていい」
「もう、相変わらず冷たーい」
「まだ本調子じゃないんだよ、早く眠らせろ」
「あら、じゃあ子守歌でも」
「だったら莉子に歌ってもらうから。早く帰れ」
「ま、むかつく。こんなところで仲がいいところ見せつける気?」
にこりと笑ったが、どこか淋し気だった。
「まあいいや、確かに今朝までICUだったんだもんね。退院したらまた逢いに行くわ」
「来なくていい、心配ないから」
「まったくぅ、人の気も知らないでー」
月子は笑顔で肩を竦めた。
「まあともあれ、お大事にね」
「ああ」
最後に手を振って病室を出た。
薄暗い廊下の天井を見上げて、溜息が零れる。
「──尊が好きになる人って、どんな人……?」
月子が知る限り、尊が交際してきた女性は年上ばかりの美人だった。尊は年上が好きなのだ、だから二歳年下の自分に興味がないのだと思い込んできた。だから自分の思いに蓋をし続けてきたが、片思いは永遠に消えない。
尊にとって自分は妹のような存在なのだろうと感じる。尊の好みをいかに研究しても、自分が尊の隣で特別な存在になることなどないのだと判る。
中学を卒業して、東京の芸能事務所の寮に入ったのは、先に東京に来ていた尊を追ってだ。その時も今のように口喧嘩をしながらも、会いに行けば手料理をごちそうしてくれた。
大が付くほどの女優になっても、尊の態度は変わらない。疎遠にもならないが、深い関係になろうとしない、少しは認めてもらえる存在になりたいと目指した仕事だったのに。
滲んだ涙を拭って歩き出す、もう『海野邦子』ではない、『海野月子』だった。
***
一週間後、尊は無事に退院することとなる。
その手続きの間に大貫が二人の刑事を連れて訪ねて来た。
「24時間体制で警護致します。基本的には藤堂さんの視界には入らないようにしますので、移動される際はこちらにご連絡ください。何か異常があった時にも」
携帯電話の番号が書かれた紙を渡す。
「よろしくお願いします」
これはもう、頼るしかない事だ。
「暫くは主にご自宅で?」
「はい、店はもう少し休もうかと」
退院しても暫く通院だと言われた、それが落ち着いたらと従業員とも相談した。
「マンションはオートロックでしたね。出入は監視カメラがありますので、我々は近くですが完全に見えないところに車を停めておりますので」
「判りました」
ひと通りすり合わせが終わってから、尊は退院の為病院を後にする。
退院の手続きをしたのは拓弥だった。莉子も付き添ってタクシーでマンション前まで戻って来た。
「大丈夫?」
動きが緩慢な尊を莉子が気遣う。
「ん、平気」
タクシーの運転手と拓弥で荷台から荷物を下ろしていると、
「──藤堂?」
声に、尊と拓弥が顔を向けた。
「橋本っ」
自転車に跨った橋本光が、白い歯を見せて笑っていた。
「なんかあったの?」
笑顔のまま橋本が聞く。
「ああ、アニキが怪我して。今日退院だったんだ」
「──へえ」
呟いて笑顔を尊に向けた、そこは素通りして尊を支えるようにして立つ莉子を、視界に収めた。
他人が怖い莉子は慌てて尊の影に隠れようと身を小さくする。
「橋本は? こんなとこに何の用?」
繁華街でもない、地元住民でなければ来ないような港町の外れである。
橋本の住まいは大学近くのアパートの筈だった。
「──ああ……」
橋本は笑みを深めた。
「この先のホームセンターにね……買い物だよ」
「おお」
確かに少し行けば、大きなホームセンターはある。
「そっか、気を付けてな」
「ああ。お兄さんも──」
今度はきちんと尊を見る。
「お大事に」
にこりと微笑む、なんとも貼りつけたような笑みを。
尊は社交辞令に「どうも」と返事をし、拓弥は「じゃあな!」と元気に手を振って橋本と別れ、建物に入って、エレベーターに乗って。
拓弥は9階、尊が8階のボタンを押した。
8階に到着すると、尊は莉子の肩を抱いたままエレベーターを降りる。
「え、部屋、戻らないの?」
「ああ」
拓弥がさっさと閉まるボタンを押す、冷やかしの口笛を忘れない。
「え、拓弥くん……!」
エレベーターには窓がある、拓弥が微笑む口元を手で押さえ、肩を振るわせながら上がっていくのが見えた。
「──嘘……!(え……既に拓弥くん公認……って言うか、全く隠す気ゼロ……!?)」
思えば事件の夜、拓弥が莉子に知らせてくれた時点で公認と言えば公認なのだろうが、あんなにもいやらしい笑みを見せられ、しかも退院したその日にまず家に帰らないなど、ありえないのではないだろうか。
「い、いいの? 拓弥くん、一人で……」
「大丈夫、母親がいる」
「ええ!?」
尊が一般病棟に移った日に、帰ると挨拶されたはずだが……。
「父親はいつまでも店を休みにもできないって帰ったけど。さすがに母親は心配だからって残ったんだよ。俺が仕事に戻るまでは、拓弥の世話はしてくるってさ。だから安心して養生しろと」
「じゃ、尊も帰ったら……」
「俺は莉子んとこに居るって言ってある。大丈夫、未来の嫁さんだからって紹介したから」
「──ええ!?」
動揺する莉子を、尊は面白そうに見下ろす。
「まあお互い、いい歳と言えばいい歳だろ。親にせっつかれてたのは事実だし」
「そ、それはそうかも知れないけど……」
男性どころか人とすら接してこなかった莉子に、結婚願望などありはしない。
「……嫁……」
そんな言葉に急に恥ずかしさが増す。
(確かに入院中の世話も殆ど私に任せてくれてたけど、そんな事言われたからなんだ……好き……って言ったのもつい最近で、まともに付き合ってるとも言えないのに、私がお嫁さん……? 本気で言ってるのかな……?)
「莉子―、鍵―」
莉子は思わず立ち止まっていた、尊はとっくに莉子の部屋の前にいる。慌てて小走りに寄った。
「ねえ、やっぱり一度は帰った方が……お母さんの顔見てからでも……」
「真下の部屋だとは言ってあるよ」
莉子は尊の手に鍵を渡しながら青ざめる。
(本当の公認じゃん……まあ、それこそいい歳、だからいいのかな……?)
尊がドアを開けて部屋に入る、その背を見ると何故だか心が温かく感じられた。 莉子も入ると背後から抱き締められる。
「──尊……!」
「やっと二人きりになれた」
言いながら尊は後ろ手にドアのロックをかける。
「ご褒美、くれんだろ?」
「あ、あげるなんて言ってないもん」
「ええ……? ご褒美の為に頑張って我慢してたのになあ……」
言って莉子の首筋を食む。
「も……噛まないで……!」
「ご褒美くれたらやめる」
言ってそのまま口いっぱいに吸われた。
「尊……!」
戸惑う莉子の二の腕を掴み、尊は莉子の背をドアに押し当てた。
莉子の手にあった尊の荷物のボストンバックは、乱暴に床に落ちた。
尊が身を屈めたのを感じて、莉子だって判る、近づく尊の顔を、両手で押しとどめる。
「駄目っ! 片付けが先!」
「そんなもん、明日でいい」
片付けとは尊の洗濯物だ。もっとも毎日莉子が持ち帰ってやっていた、そんなに量がある訳ではない。
「じゃ、じゃあ、ご飯! お腹空いた!」
「ああ、そうだな。久々に一緒に作るか?」
そんな言葉に、莉子の手が緩む。
「いいよ、尊、病み上がりだよ。私が作る、頼りないだろうけど」
「そんなことない、楽しみしてる」
微笑み言う尊に、莉子の警戒心が解けた。
力が抜けた莉子の両手首を掴み、左右に開く。
「え、や……!」
「先にこっちをいただきます」
そのままドアに押し付け無理矢理唇を奪う、莉子の抵抗は数秒も持たない。
呼吸が荒くなって、腰が砕けそうになる。
「……たけ……もう、やめ……」
唇が離れた瞬間に言うが、再度塞がれる。
「うん……もうちょい……」
こちらは唇を離さず言う。
「ん……もう……っ……駄目ったら駄目!」
声を上げると、尊は舌打ちしながらも離れた。
*
お昼ご飯と言うには少し遅い時間に昼食となる。
莉子が作った食事を尊は口に運ぶ、味わってから微笑んだ。
「──俺の味だな」
並んだ食事を一通り食べてからの言葉に莉子は驚く。
「え、そう?」
「まあ、莉子の食事を食べた事はないけど。少なくとも今日作ったのは俺と同じ味になってる」
言われて莉子は嬉しそうに微笑んだ。
同じ味と言われて嬉しかった訳ではない、いやそれが皆無な訳ではないが、きちんと味を感じている
のが判って嬉しかった、尊の味覚は、少なくとも現時点で失われていないと。
「あ、じゃあさ」
向かいの席で食べていた莉子は慌てて立ち上がった。
「これは? これも食べてみて」
冷蔵庫から出したのはチーズケーキだった。
まだ食事の途中だが切り分けテーブルに置く。
「見舞いにも散々食べたけど」
莉子は何度かお見舞いの品として持って行っていた。
「いいから。お願い」
今かよ、と思いながらも尊は一口切り分け食べる。
「うん、うまいよ──ああ、チーズが違う?」
「──うん」
莉子は更に嬉しそうに微笑んだ。
きっと僅かな差だろう、メーカーが違うクリームチーズは風味が変わる。それを判ってくれた。
「──よかった」
「なにが?」
「……なんでも」
「なんだよ」
口調は怒っているが、顔は笑顔のまま尊は言う。
食事が終わり、尊は莉子が淹れてくれたお茶を飲みながら、後頭部に触れた。
「げ、髪無いじゃん」
入院中はずっと包帯が撒かれていた。退院の為、ようやく解かれたのだ。
「裂傷もあって縫うのに剃ったみたいよ」
「なんだよー、生えそろうのはまだまだになりそうだなあ」
「とりあえず少し整えようか。あと帽子でも買いに行く? ニット帽なら隠れるかもよ」
「そうだなあ」
一時間後、二人は元町の商店街を歩いていた。
まずはファストファッションの店でニット帽を買う、そこまで行くのにも見えているのは嫌だと莉子のニット帽を借りていたが買ったものを早速被り直した。
店を出ると、尊は莉子の肩を抱く。慣れない莉子は身を竦める。
「せっかく出たから、少し歩こう」
「でも、疲れない?」
「走る訳じゃないし、大丈夫」
言われて莉子は尊が導くままに歩き出す。
「あ」
元町商店街を歩いていると、急に尊が声を上げ、莉子をぐいと引っ張った。
「え」
入ったのはランジェリーショップだった。
「ええっ!?」
デパートの下着コーナーに入ったことはあっても専門店はない、ましてやそんな店に男性が入っていいものなのかと思い身を固くしたが、意外にも店員は明るく「いらっしゃいませ」と受け入れていた。
「ああいうの、着てみなよ」
尊が指さしたのは、黒のオーガンジーでできたベビードールだった。
「え!? あんなのいつ着るの!?(いやらしさしか感じない!)」
「そんなの決まってんじゃん」
言って尊は莉子の頭を抱き寄せ、その頭頂にキスをする。
「え、ちょ……っ」
人前でのキスに戸惑う。
「あれ、ください」
尊が気軽に店員に声を掛ける。
「ええっ、本当に!?(なんでなんで!?)」
「プレゼント」
尊は嬉しそうに言う。
「お色、選べますよ」
店員は気にした様子もなく、店内の引き出しから袋に入った同じ品を出す、白とピンクがあった。
「莉子、どれにする?」
「ど、どれって……(どの色でも、形は一緒なんでしょ!?)」
戸惑う間に、尊は笑顔で店員に告げる。
「じゃあ黒でいいです」
「ええ……!?(黒の下着なんて初めてだよー!)」
「お揃いで、ブラとショーツもございますけど」
店員はにこやかに別の引き出しから、黒のそれらを出して並べる。
「おお、いいな」
「え、いやいやいやいや……(待ってよ、全然隠す気のないブラとパンティーだよー!)」
「ください」
「ええ!?」
「かしこまりました、サイズは? お測りしますか?」
「い、いえ、60のDを……」
言うと尊は嬉しそうに莉子の髪にキスを始める。
「んもう……人前で……」
やんわりと押し返そうとするが、尊は離れない。
店員が丁寧に包んでくれた物が入った手提げを尊が受け取る。
(男性が女物の下着買うのって、普通なのかな)
尊も店員も当たり前のようにやり取りしていた、恥ずかしいのは莉子だけのようだ。
(しかも……透け透け……って)
恥ずかしさに顔を真っ赤にして店を出ると、尊は再び、当たり前の仕草で莉子の肩を抱く。
「さて、いつ着てくれる?」
頭上からの声に、莉子は頬を更に真っ赤に染める。
「え……えっち……!」
そんな顔すら可愛くて仕方ない。
「楽しみだな」
「き、着ないもんっ」
「じゃあ飾って、楽しむ」
「……楽しむ……? 何を?」
不安げに聞く莉子に、尊は笑顔だけで返した。
「そんな事あるか」
「ああ、リコか。きゃあ会ってみたーい、たけちゃんを振る女なんてー!」
「振られてはいない」
「あら、じゃあ恋人?」
「そうだよ、って、クニちゃんに報告する義務はない」
「クニちゃんって呼ばないでっ!」
「用は済んだだろ、もう帰れ」
「リコちゃんってどんな人?」
「見舞いに来たんだろ? 俺は元気だ。もう来なくていい」
「もう、相変わらず冷たーい」
「まだ本調子じゃないんだよ、早く眠らせろ」
「あら、じゃあ子守歌でも」
「だったら莉子に歌ってもらうから。早く帰れ」
「ま、むかつく。こんなところで仲がいいところ見せつける気?」
にこりと笑ったが、どこか淋し気だった。
「まあいいや、確かに今朝までICUだったんだもんね。退院したらまた逢いに行くわ」
「来なくていい、心配ないから」
「まったくぅ、人の気も知らないでー」
月子は笑顔で肩を竦めた。
「まあともあれ、お大事にね」
「ああ」
最後に手を振って病室を出た。
薄暗い廊下の天井を見上げて、溜息が零れる。
「──尊が好きになる人って、どんな人……?」
月子が知る限り、尊が交際してきた女性は年上ばかりの美人だった。尊は年上が好きなのだ、だから二歳年下の自分に興味がないのだと思い込んできた。だから自分の思いに蓋をし続けてきたが、片思いは永遠に消えない。
尊にとって自分は妹のような存在なのだろうと感じる。尊の好みをいかに研究しても、自分が尊の隣で特別な存在になることなどないのだと判る。
中学を卒業して、東京の芸能事務所の寮に入ったのは、先に東京に来ていた尊を追ってだ。その時も今のように口喧嘩をしながらも、会いに行けば手料理をごちそうしてくれた。
大が付くほどの女優になっても、尊の態度は変わらない。疎遠にもならないが、深い関係になろうとしない、少しは認めてもらえる存在になりたいと目指した仕事だったのに。
滲んだ涙を拭って歩き出す、もう『海野邦子』ではない、『海野月子』だった。
***
一週間後、尊は無事に退院することとなる。
その手続きの間に大貫が二人の刑事を連れて訪ねて来た。
「24時間体制で警護致します。基本的には藤堂さんの視界には入らないようにしますので、移動される際はこちらにご連絡ください。何か異常があった時にも」
携帯電話の番号が書かれた紙を渡す。
「よろしくお願いします」
これはもう、頼るしかない事だ。
「暫くは主にご自宅で?」
「はい、店はもう少し休もうかと」
退院しても暫く通院だと言われた、それが落ち着いたらと従業員とも相談した。
「マンションはオートロックでしたね。出入は監視カメラがありますので、我々は近くですが完全に見えないところに車を停めておりますので」
「判りました」
ひと通りすり合わせが終わってから、尊は退院の為病院を後にする。
退院の手続きをしたのは拓弥だった。莉子も付き添ってタクシーでマンション前まで戻って来た。
「大丈夫?」
動きが緩慢な尊を莉子が気遣う。
「ん、平気」
タクシーの運転手と拓弥で荷台から荷物を下ろしていると、
「──藤堂?」
声に、尊と拓弥が顔を向けた。
「橋本っ」
自転車に跨った橋本光が、白い歯を見せて笑っていた。
「なんかあったの?」
笑顔のまま橋本が聞く。
「ああ、アニキが怪我して。今日退院だったんだ」
「──へえ」
呟いて笑顔を尊に向けた、そこは素通りして尊を支えるようにして立つ莉子を、視界に収めた。
他人が怖い莉子は慌てて尊の影に隠れようと身を小さくする。
「橋本は? こんなとこに何の用?」
繁華街でもない、地元住民でなければ来ないような港町の外れである。
橋本の住まいは大学近くのアパートの筈だった。
「──ああ……」
橋本は笑みを深めた。
「この先のホームセンターにね……買い物だよ」
「おお」
確かに少し行けば、大きなホームセンターはある。
「そっか、気を付けてな」
「ああ。お兄さんも──」
今度はきちんと尊を見る。
「お大事に」
にこりと微笑む、なんとも貼りつけたような笑みを。
尊は社交辞令に「どうも」と返事をし、拓弥は「じゃあな!」と元気に手を振って橋本と別れ、建物に入って、エレベーターに乗って。
拓弥は9階、尊が8階のボタンを押した。
8階に到着すると、尊は莉子の肩を抱いたままエレベーターを降りる。
「え、部屋、戻らないの?」
「ああ」
拓弥がさっさと閉まるボタンを押す、冷やかしの口笛を忘れない。
「え、拓弥くん……!」
エレベーターには窓がある、拓弥が微笑む口元を手で押さえ、肩を振るわせながら上がっていくのが見えた。
「──嘘……!(え……既に拓弥くん公認……って言うか、全く隠す気ゼロ……!?)」
思えば事件の夜、拓弥が莉子に知らせてくれた時点で公認と言えば公認なのだろうが、あんなにもいやらしい笑みを見せられ、しかも退院したその日にまず家に帰らないなど、ありえないのではないだろうか。
「い、いいの? 拓弥くん、一人で……」
「大丈夫、母親がいる」
「ええ!?」
尊が一般病棟に移った日に、帰ると挨拶されたはずだが……。
「父親はいつまでも店を休みにもできないって帰ったけど。さすがに母親は心配だからって残ったんだよ。俺が仕事に戻るまでは、拓弥の世話はしてくるってさ。だから安心して養生しろと」
「じゃ、尊も帰ったら……」
「俺は莉子んとこに居るって言ってある。大丈夫、未来の嫁さんだからって紹介したから」
「──ええ!?」
動揺する莉子を、尊は面白そうに見下ろす。
「まあお互い、いい歳と言えばいい歳だろ。親にせっつかれてたのは事実だし」
「そ、それはそうかも知れないけど……」
男性どころか人とすら接してこなかった莉子に、結婚願望などありはしない。
「……嫁……」
そんな言葉に急に恥ずかしさが増す。
(確かに入院中の世話も殆ど私に任せてくれてたけど、そんな事言われたからなんだ……好き……って言ったのもつい最近で、まともに付き合ってるとも言えないのに、私がお嫁さん……? 本気で言ってるのかな……?)
「莉子―、鍵―」
莉子は思わず立ち止まっていた、尊はとっくに莉子の部屋の前にいる。慌てて小走りに寄った。
「ねえ、やっぱり一度は帰った方が……お母さんの顔見てからでも……」
「真下の部屋だとは言ってあるよ」
莉子は尊の手に鍵を渡しながら青ざめる。
(本当の公認じゃん……まあ、それこそいい歳、だからいいのかな……?)
尊がドアを開けて部屋に入る、その背を見ると何故だか心が温かく感じられた。 莉子も入ると背後から抱き締められる。
「──尊……!」
「やっと二人きりになれた」
言いながら尊は後ろ手にドアのロックをかける。
「ご褒美、くれんだろ?」
「あ、あげるなんて言ってないもん」
「ええ……? ご褒美の為に頑張って我慢してたのになあ……」
言って莉子の首筋を食む。
「も……噛まないで……!」
「ご褒美くれたらやめる」
言ってそのまま口いっぱいに吸われた。
「尊……!」
戸惑う莉子の二の腕を掴み、尊は莉子の背をドアに押し当てた。
莉子の手にあった尊の荷物のボストンバックは、乱暴に床に落ちた。
尊が身を屈めたのを感じて、莉子だって判る、近づく尊の顔を、両手で押しとどめる。
「駄目っ! 片付けが先!」
「そんなもん、明日でいい」
片付けとは尊の洗濯物だ。もっとも毎日莉子が持ち帰ってやっていた、そんなに量がある訳ではない。
「じゃ、じゃあ、ご飯! お腹空いた!」
「ああ、そうだな。久々に一緒に作るか?」
そんな言葉に、莉子の手が緩む。
「いいよ、尊、病み上がりだよ。私が作る、頼りないだろうけど」
「そんなことない、楽しみしてる」
微笑み言う尊に、莉子の警戒心が解けた。
力が抜けた莉子の両手首を掴み、左右に開く。
「え、や……!」
「先にこっちをいただきます」
そのままドアに押し付け無理矢理唇を奪う、莉子の抵抗は数秒も持たない。
呼吸が荒くなって、腰が砕けそうになる。
「……たけ……もう、やめ……」
唇が離れた瞬間に言うが、再度塞がれる。
「うん……もうちょい……」
こちらは唇を離さず言う。
「ん……もう……っ……駄目ったら駄目!」
声を上げると、尊は舌打ちしながらも離れた。
*
お昼ご飯と言うには少し遅い時間に昼食となる。
莉子が作った食事を尊は口に運ぶ、味わってから微笑んだ。
「──俺の味だな」
並んだ食事を一通り食べてからの言葉に莉子は驚く。
「え、そう?」
「まあ、莉子の食事を食べた事はないけど。少なくとも今日作ったのは俺と同じ味になってる」
言われて莉子は嬉しそうに微笑んだ。
同じ味と言われて嬉しかった訳ではない、いやそれが皆無な訳ではないが、きちんと味を感じている
のが判って嬉しかった、尊の味覚は、少なくとも現時点で失われていないと。
「あ、じゃあさ」
向かいの席で食べていた莉子は慌てて立ち上がった。
「これは? これも食べてみて」
冷蔵庫から出したのはチーズケーキだった。
まだ食事の途中だが切り分けテーブルに置く。
「見舞いにも散々食べたけど」
莉子は何度かお見舞いの品として持って行っていた。
「いいから。お願い」
今かよ、と思いながらも尊は一口切り分け食べる。
「うん、うまいよ──ああ、チーズが違う?」
「──うん」
莉子は更に嬉しそうに微笑んだ。
きっと僅かな差だろう、メーカーが違うクリームチーズは風味が変わる。それを判ってくれた。
「──よかった」
「なにが?」
「……なんでも」
「なんだよ」
口調は怒っているが、顔は笑顔のまま尊は言う。
食事が終わり、尊は莉子が淹れてくれたお茶を飲みながら、後頭部に触れた。
「げ、髪無いじゃん」
入院中はずっと包帯が撒かれていた。退院の為、ようやく解かれたのだ。
「裂傷もあって縫うのに剃ったみたいよ」
「なんだよー、生えそろうのはまだまだになりそうだなあ」
「とりあえず少し整えようか。あと帽子でも買いに行く? ニット帽なら隠れるかもよ」
「そうだなあ」
一時間後、二人は元町の商店街を歩いていた。
まずはファストファッションの店でニット帽を買う、そこまで行くのにも見えているのは嫌だと莉子のニット帽を借りていたが買ったものを早速被り直した。
店を出ると、尊は莉子の肩を抱く。慣れない莉子は身を竦める。
「せっかく出たから、少し歩こう」
「でも、疲れない?」
「走る訳じゃないし、大丈夫」
言われて莉子は尊が導くままに歩き出す。
「あ」
元町商店街を歩いていると、急に尊が声を上げ、莉子をぐいと引っ張った。
「え」
入ったのはランジェリーショップだった。
「ええっ!?」
デパートの下着コーナーに入ったことはあっても専門店はない、ましてやそんな店に男性が入っていいものなのかと思い身を固くしたが、意外にも店員は明るく「いらっしゃいませ」と受け入れていた。
「ああいうの、着てみなよ」
尊が指さしたのは、黒のオーガンジーでできたベビードールだった。
「え!? あんなのいつ着るの!?(いやらしさしか感じない!)」
「そんなの決まってんじゃん」
言って尊は莉子の頭を抱き寄せ、その頭頂にキスをする。
「え、ちょ……っ」
人前でのキスに戸惑う。
「あれ、ください」
尊が気軽に店員に声を掛ける。
「ええっ、本当に!?(なんでなんで!?)」
「プレゼント」
尊は嬉しそうに言う。
「お色、選べますよ」
店員は気にした様子もなく、店内の引き出しから袋に入った同じ品を出す、白とピンクがあった。
「莉子、どれにする?」
「ど、どれって……(どの色でも、形は一緒なんでしょ!?)」
戸惑う間に、尊は笑顔で店員に告げる。
「じゃあ黒でいいです」
「ええ……!?(黒の下着なんて初めてだよー!)」
「お揃いで、ブラとショーツもございますけど」
店員はにこやかに別の引き出しから、黒のそれらを出して並べる。
「おお、いいな」
「え、いやいやいやいや……(待ってよ、全然隠す気のないブラとパンティーだよー!)」
「ください」
「ええ!?」
「かしこまりました、サイズは? お測りしますか?」
「い、いえ、60のDを……」
言うと尊は嬉しそうに莉子の髪にキスを始める。
「んもう……人前で……」
やんわりと押し返そうとするが、尊は離れない。
店員が丁寧に包んでくれた物が入った手提げを尊が受け取る。
(男性が女物の下着買うのって、普通なのかな)
尊も店員も当たり前のようにやり取りしていた、恥ずかしいのは莉子だけのようだ。
(しかも……透け透け……って)
恥ずかしさに顔を真っ赤にして店を出ると、尊は再び、当たり前の仕草で莉子の肩を抱く。
「さて、いつ着てくれる?」
頭上からの声に、莉子は頬を更に真っ赤に染める。
「え……えっち……!」
そんな顔すら可愛くて仕方ない。
「楽しみだな」
「き、着ないもんっ」
「じゃあ飾って、楽しむ」
「……楽しむ……? 何を?」
不安げに聞く莉子に、尊は笑顔だけで返した。