Crazy for you  ~引きこもり姫と肉食シェフ~
***


朝の気配に莉子は目を覚ました。

温かいものに包まれていた、布団は勿論だが、温かく滑らかな肌が触れ合っている。目の前にあったのは裸の胸、視線を上げて尊の寝顔を確認した、無防備な寝顔に心が満たされる。

ふと気付く、布団は莉子の顔の位置に合っているので、尊は胸までしか布団がない、寒いのではないか、そう思ってそっと布団をずり上げた。
途端に抱き締められた、元々尊の両腕は莉子の体を包んでいたが、その輪が縮まって完全に捕らえられた。

(うわー……)


体が密着して、昨夜の熱が思い出される。

(た、尊と……っ)

甘い言葉と責める言葉の両方に酔わされた。視線と指と唇で体の隅々まで確かめられたのが恥ずかしい。

(でも……嬉しかった……)

尊の愛に、心も体も満たされたのを十分に感じる。

その時、何処かでスマートフォンが震えるのを感じた。

「え、あ……」

隣の仕事部屋に置きっぱなしだ、どうせ莉子の電話が鳴る理由などたかが知れている、出なくてもと思ったが、時計を見て驚いた、既に10時を指していた。

尊を起こさないようにとゆっくりその腕から抜け出る、尊はすやすやと眠っていた。一糸まとわぬ姿に気付き、そのままではと自身のシャツだけを羽織って寝室を出る。電話は案の定、香子からだった。 一晩中つけっ放しだったパソコンやオーディオ機器のスイッチに罪悪感を感じながら、着信ボタンを押した。

『やっと出た! 何回掛けたと思ってるの!?』
「あ、ごめん、寝てた。それで電話は違う部屋にあったから」

後に見たら着信は二十回となっていた。

『まあいいわ、歌、できた?』

どの歌だろう?と思ったが、何故か今日はあまり苛立たなかった。



***


退院から一週間後の通院で、無理は禁物だが日常生活に戻ってよいと通達された。 尊はその足で店へ出向く、通院に付き合った莉子はマンションに戻る。

店にはウェイターとシェフが一人ずつ居り、二人揃って窓掃除をしていた。

「オーナー!」

二人とも泣いて尊を出迎える、どれほど心配をかけていたか思い知らされた。

二人に営業再開の知らせを頼み、自身は食材の確認と発注をして、落ち着いた頃にはもう辺りは真っ暗だった。

「あとはやっておきます」

最終的な閉店の確認は二人に頼み、尊は家路に着く。随分久々に歩く帰り道だった。 歩いて新山下のマンションに着くと、エレベーターのボタンは8階を押した。 到着すると真っ直ぐ莉子の部屋へ行く。

莉子は今日も大きなヘッドホンをして仕事をしていた、インターフォンの音に気付いた。
モニターを見て驚く。

「尊……なんだろ?」

店の前で別れた尊は、すっかり家に帰るものだと思っていた。尊が莉子の家にいるのは、店が再開するまでと言う約束だったからだ。
インターフォンには出ずに、そのまま玄関へ向かいドアを開けた。

「尊? どうかし……」

言い終わる前に尊は押し入っていた。

「どうしたの? 忘れ物?」
「忘れ物と言えば忘れ物」

言うなり身を屈めてキスをした、そのまま強く抱き締め合ってキスはどんどん深くなる。
尊のキスは好きだ、莉子は素直にそのキスを受け入れる。

尊の手がするりと莉子のシャツの裾から侵入し優しく乳房の丸みを確認するように揉まれて、莉子は大きく息を吐いた。

「やっぱ莉子んちに泊まろうかな……」

囁く言葉の意味を、瞬時に判断する。

「な……! 駄目だよ! お母さんは埼玉に帰ったんでしょ!? 拓弥くん一人にしておいちゃ駄目じゃん!」

実家からとは言え、預かりものの未成年だ。

「そうなんだけど。じゃあ莉子がうち来る? いや、それは俺が嫌だな」

拓弥と住むなど、絶対駄目だと判る。

「大体、うちに居る間は、毎日、毎日……!」

言って、真っ赤になって言葉に詰まる。

初めて結ばれた晩から。
毎夜求められた。正直男性との交際の仕方を知らない莉子はそんなものかと断らなかったし、尊に求められれば嬉しかったし、それ以上にこれまで体験したことない快楽に溺れて心地よかったのは確かだ。

しかし、尊が家に戻るとなって。
半分は淋しさもあったが、残りは安堵だった。
一緒に住んでいなければ、恋人として時々逢ってデートしたり関係を持ったりするのだろうと思った。

なのに。

そう思った日の内に。

求められるとは──。

「あの、さすがに、ちょっと……!」
「ちょっと、何?」

尊は莉子の下半身に自身の腰を押し付けながら言った。既にそこにある熱に、莉子は真っ赤になって
尊を見上げる。

「付き合ってよね」

尊の笑顔に、莉子は頷いていた。


***


週明けから尊は仕事に戻る、店員たちも全員戻り、店はまた元の賑わいを見せる。

莉子は二度目のリニューアルオープンから四日後に店にやって来た。

店の近くの通りの角で、見知った人物に会った、いかにも誰かを待ってるとでも言いたげな風情で立っているが、私服警官だ。

「あ」

思わず声を上げると、先方も気付いた、ほんのわずかに頭を下げた様子で声を掛けてはいけないのだと判じる。

(そっか。隠れて警護してくれてるんだ)

いつもこうして警護してくれていたと判って、莉子は小さく頭を下げてその脇を抜けた。

Le Bonheur(レ・ボナー)の階段は目と鼻の先だ。もう少しで階段下と言うところまで来て、いきな
り背後から抱き付かれた。いやただ抱き付かれるならまだいい、腰に右腕を巻かれ持ち上げられ、左手は口を塞いだ。

「え……!?」

声はこもった、思わず背後に視線を向けると、視界の端に僅かに姿を確認できた。ひょろひょろとした体形の男だった。

莉子がそんな事を確認する間にも、男は莉子を抱きかかえたまま移動を始める。

「や、やだ……! 何……!?」

暴れるが男の手は解けない、莉子は本格的に身の危険を察知した。

「助けて……! 助けて!!!」

くくぐもった声で叫んだ瞬間、背後にぐいと引っ張られた。
私服警官が男を捕らえていた、男が倒れるのと一緒に莉子も倒れた、男はなおも莉子から手を離さない、シャツをしっかり握っていた。

「きゃあ……!」

初めて叫び声が出た、別の私服警官もやってきて莉子を庇うように引いてくれる、男の手が莉子のシャツを掴んでいると判って、その手を捩じ上げる。

「オーナー! 莉子さんが!」

階段の上で声がする、誰かが尊を呼んでいると判った、Le Bonheurの入口から丸見えの位置だった。
その時莉子は男の顔を見た、何処かで見た顔だった。

「橋本光!!!」

警官が怒鳴ったのを聞いて、そうだ、そんな名前だったと思い出す、拓弥と親しげに話していた男の名を。

「カコ……カコ……!」

石畳に押さえ付けられたまま、橋本が莉子を見つめながら呻くように言う。

「わ、私は香子じゃ……!」
「莉子!」

尊の声がして、思わず振り返った、尊は落ちる様に階段を降りてくるとすぐさま莉子を抱き締める。しっかり抱き締め熱を確かめてから体を離し、無事を確認しようと頬を撫でた。

「何があった!?」
「こ、この人、私を香子だと思ったみたいで……」
「てめえ! カコから離れろ!!!」

警官に押さえ付けられながら橋本は叫んだ。

「カコはみんなのものなんだ! 誰かのものになんかならないんだ! 誰かのものになるなら僕のものに……! カコ、僕と行こう!」

酔ったような瞳で手を差し伸べられて、莉子は慌てて視線をそらして尊の胸に顔を埋める。 橋本の手をすぐさま警官が押さえつけた。

「ふざけんなよ、小僧」

尊が凄む。

「莉子と香子の区別もつかない奴が、大口叩いてるんじゃねえ」

しっかりと莉子を抱き締めながら言う。

「何がリコだ、僕の目は誤魔化されないからな。どんなに調べてもカコに双子の妹がいるなんて情報はなかった。君はカコだ、僕の天使だ。そんな薄汚い男の手から救ってあげるから、カコ、僕と
──」

その手に手錠が掛かる。

「詳しくは署で。実は橋本は参考人の一人でした。念の為引き続き警備は致しますが」

そう言って警官は、橋本を引きずるように連れて行く。橋本は尚も未練があるのか莉子から視線を外さなかったが、それから逃れる様に尊が莉子の肩をしっかりと抱き店へ連れて行く。

いつもの半個室で。

「大丈夫か?」

優しく髪を撫でながら言う。

「ん……平気……怖かっただけ」
「どうした? 何があった?」
「よく判かんない……背後から抱き付かれて……」

ウェイターが二人の前に水を置いた。

「そのまま、連れて行かれそうに、なってた、のかも……」

尊は大袈裟に溜息を吐いた。

「香子に間違えられてか」
「……みたい」
「今までにそんな事が?」
「ないよ! 初めてだよ!」
「──あいつ、拓弥の友達とか言うやつだったな。拓弥が妙な事を口走ったのかも?」
「え、でも拓弥くんは、私と香子は別人だって判ってるよね?」
「まあ、あいつの事だから香子と知り合いくらいは言うかもな。とにかくあんな馬鹿にまた会うのはごめんだ。帰りは送るから」
「え、いいよ、あの人は警察が連れて行ってくれたし、タクシーで帰る……」
「家に着くまで見ないと心配。着いたら家から一歩も出るな」
「え、前は外出しろってうるさかったじゃん」
「事情が変わった。自分が死ぬかどうかより、莉子がいなくなるって思う方が、遥かに心臓に悪い」

頬を撫でられ、髪を梳かれて言われて。莉子は恥ずかし気に俯いた。

「俺がいない時は、外出禁止」
「ん……」
「俺以外は家に上げない」
「そんなの……前からだよ……」

尊の指が後頭部にかかって、莉子は次に期待する、思わず目を閉じ僅かに唇を開けて待つと。

「あー、ごほん」

芝居がかった咳払いが聞こえて、尊の手が離れる。

「ラブラブを見せつけられるのは、こっちの心臓が悪いです」

真っ赤な顔をして言われた、半個室は出入口部分しか見えないとは言え、二人の姿を全く隠してくれる訳ではなく、声も聞こえない訳ではない。

莉子は恥ずかしくて仕方ないが、尊は小さな舌打ちをしただけだった。





数日後、警察から事件の経緯の説明があった。
わざわざ足を運んでもらったのは、莉子の家だった。

「容疑を、莉子さんへの暴行未遂から、藤堂さんへの殺人未遂に切り替えました」

そんな言葉に尊が驚く。

「殺人未遂……!?」
「あなたを金属バットで襲ったのは、橋本でした。あなたが死ねばいいと思っての行為だったと自供しました。なので殺人に値します」

尊は思わず呻いた、拓弥の友人に恨まれる覚えがさっぱりない。

「どうして……」
「彼はCaccoの熱狂的なファンです。今度のドームツアーも全会場のチケットを取っていた程の。双子の姉妹と聞いて莉子さんのストーカーを始めたようです。でも彼は双子とは信じていなくて、未だに香子さん本人と思い込んでいるようです、そんな莉子さんと交際している藤堂さんに嫉妬を覚えたようで、数々の嫌がらせを」

尊は頷いた。

「犯行時間帯の防犯カメラに彼の姿はあったので確認したところ、犯行を認めました。家には煙草は吸わないのに、数本無い煙草の箱があり、それは犯行現場にあったものと一致しましたし、ライターの詰め替え用オイルもありました。それでも飽き足らず藤堂さん自身を──供述通り中村川から金属バットが」

中村川は、元町の通りと並行して流れる川だ。

「残念ながら、指紋も血液の痕も残っていませんでしたが、十分証拠になりうると判断しました。あなたのお店に侵入して荒らしたことも白状しました。近く検察に送る事になります」

説明を終えた警官が辞するのを、尊が玄関まで送った。
戻ると莉子がソファーに座って小さな背中を揺らしていた。

「──莉子」

隣に座ると、莉子は自分の膝を見つめてポロポロと涙を流していた。

「ごめんね、尊……私の所為だ……」
「それは違う。悪いのは橋本だろ」
「でも、私と出逢わなかったら、生死を彷徨うような怪我なんかしないで済んだし、お店だって……!」
「莉子の所為じゃない」

そっと莉子を抱き寄せ、涙を肩に押し付ける。

「悪いのは、勝手に勘違いした橋本。それに、好きになったのは俺の方だし。莉子が好きだから傍に居たいって思ったのも俺の方」
「尊……」
「だから莉子が気にすることない。これからは俺も少しは気を付けるよ。莉子も気を付けないとな、この間みたいに莉子自身に危害が及ぶ可能性がないこともない」
「ん……」
「莉子、好きだよ」

優しい声に、莉子は頷きながら涙を指先で拭った、その指に尊はキスをする。

「……尊……」
「愛してる。ずっと俺の隣にいて」

キスは今度は唇に落ちた、莉子はそれを素直に受け入れていた。もっとして欲しいと願ったのは、初めてだと思った。
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