うそつきす -嘘をついたらキスをされる呪い-

***

「あら。王子様とお姫様の到着じゃない。ここは舞踏会じゃないわよ」

 保健室に入るなり、ニヤニヤと笑みを浮かべて茶化したのは白衣を身にまとった養護教諭の蘭香《らんか》だった。そして「そこに座らせて。診てあげる」と保健室の一角にある長椅子を指さした。

 蘭香はこの学校の有名人である。羽織った白衣の下には、胸元の開いたブラウスと黒いタイトスカート。化粧は濃く、唇は真っ赤なルージュが塗られ、爪は切りそろえているものの薄桃色と白色に塗り分けられている。どこを見ても養護教諭とは思えないのだが、有名なのはそれだけではない。

 伊達は長椅子に佳乃をおろすと、蘭香に向き直って言った。

「お願いします、北郷先生」

 その言葉に蘭香は頷き、つかつかとヒールの音を鳴らしながら佳乃が座る長椅子に向かう。

「二人三脚見てたわよ。一歩目で転ぶなんて佳乃ったら本当に運動音痴ね。しばらく笑いがとまらなかったわ」
「蘭香さん、見てたんですね」
「誰もこないからヒマなのよ。ほら、靴下脱いで」

 養護教諭、北郷《きたごう》蘭香《らんか》。
 菜乃花の姉であり、学内では美形姉妹と有名である。ハーフのため顔つきはやや濃く、陶器のような白い肌は菜乃花と同じだが、異なるのは髪の色。蘭香の場合は赤く染めているため天然の色ではない。さらに性格も菜乃花と違ってお嬢様らしさはなく、どちらかといえばさばさばとした男っぽい印象だ。

 菜乃花と仲のいい佳乃は、蘭香のことをよく知っていた。最近では学校で顔を合わせる程度だが、小さな頃は一緒に遊んだりしたものだ。その切れ長の瞳がすっと細くなって佳乃の足首を凝視する。

「痛い?」
「ズキズキします。でも歩けないほどじゃないです」
「……軽い捻挫ね。すぐに治ると思うけど、少し腫れてるから湿布を貼って様子見。派手に転んだから心配だったけど、これなら大丈夫よ。運がよかったわね」

 そう言って蘭香は立ち上がり、湿布をとるべく棚の前に移動した。その間、黙って佳乃たちの様子を見ていた伊達に声をかける。

「しかし、王子様ったらさすがね。佳乃をお姫様抱っこで運んでくるなんて、とんだ力持ちじゃない」
「いやだな、からかわないでください。僕は王子様じゃないですよ。それに三笠さんは軽かったので、僕でも抱き上げることができました」
「あらあら、青春ね」

 蘭香はからかうように笑い、「よかったわね、佳乃」と話を振った。
 こんなタイミングで話を振られてもどう反応していいのかわからない。お姫様抱っこや軽かったなどの赤面必須のワードに耐えながら、佳乃はなんとか平静を装う。

「それじゃ、お姫様抱っこの王子様に手当をお願いしてもいいかしら。あたし、これから職員室に行かなきゃいけないのよ。湿布を貼るだけだからできるでしょう?」
「はい、わかりました」
「佳乃は……パン食い競走終わっているからこの後走ることはないだろうけど、今日は安静にしていなさい」

 取り出した湿布を渡して後の手当を伊達に託すと、蘭香は佳乃に近づく。
 そして伊達に気づかれぬよう、顔を寄せて囁いた。

「二人きりにしてあげる。でも、嘘には気をつけなさいよ」

 赤いルージュで彩られた唇が綺麗な弧を描く。この囁きによって、職員室に行くというのは嘘で、蘭香が気をつかってくれたのだと佳乃は察した。

 佳乃が伊達に片思いをしていることは蘭香も知っている。年齢の離れた蘭香は幼い頃から頼れる姉のような存在だった。菜乃花と遊んでいる時によく蘭香がやってきて、悩みごとを話したりしたものだ。
 そして呪いのことも。嘘をついたらキスをされる呪いについて知っているのは、菜乃花と蘭香の信頼できる二人だけだった――のだが、いまは浮島が混ざってしまった。

 気遣ってくれたことに感謝をして佳乃が頭をさげると、蘭香は保健室を出て行った。最近は蘭香が忙しいらしく学校外で会うことはないのだが、今度会った時にはお礼をしなければ。

 王子様だのお姫様抱っこだのと蘭香にからかわれていたからか、伊達と二人きりになった瞬間、恥ずかしさが蘇る。湿布を貼ろうと佳乃の前で屈む伊達を直視することもできず、佳乃は視線を泳がせながら、二人三脚のことを謝った。

「……転んじゃってごめんね。伊達くんに迷惑かけちゃった」
「気にしないで。それよりも三笠さんの怪我が軽くてよかった」

 足首に、ひやりと冷たい感触。伊達の指先が足に触れて羞恥心を生んでいるというのに、なぜか虚しくなっていく。足首に貼られた湿布から漂うメンソールの爽やかな香りが、目の奥まで沁みわたって、切なさに視界が滲んだ。

「転んで、抱えてもらって――伊達くんに恥ずかしい思いをさせちゃった。私じゃなくて他の人が走った方がよかったのかも」

 あはは、とつよがって笑いながら「ごめんね」と続ける。せっかくのチャンスも生かせず、伊達に嫌われてもおかしくないことばかり。こんな情けない姿を好きな人に見られるなんて、このまま消え去ってしまいたい。

 足首よりも心の方が痛い。ずきずきと疼いて、後悔ばかりが頭に浮かぶ。

「……僕は、」

 手当を終えた伊達が、佳乃を見上げる。

「剣淵くんの代わりが三笠さんでうれしかったよ。ラッキーだな、って思っていたんだ」

 柔らかくて蕩けてしまいそうな微笑み。少し照れくさそうにしながらも瞳はまっすぐ佳乃だけを見つめている。

 この時間が幻なのかもしれないと思うほど、伊達が紡いだ言葉は佳乃にとって幸せなもので、急いた心臓の音が保健室に響いてしまいそうだ。もしもこれが幻でないとしたら伊達は佳乃のことを――そんな淡い期待が浮かんで、縋りつきたくなる。この場で想いを告げてもいいのではないかと悩んでしまう。

 二人の間に静かな時間が流れる。お互いに見つめあったまま、次に紡ぐ言葉と勇気を探して、唇を閉ざしていた。

「……ねえ、三笠さん」

 口火を切ったのは伊達だった。静寂流れる保健室がようやく動き出し、伊達も立ち上がる。

「来週末、空いてるかな?」
「あ、空いてます!」
「前のデートの埋め合わせがしたいんだ。今度は買い出しじゃなくて、三笠さんの好きなところに行こう」

 今度こそ伊達とデートができるのだ! その喜びに、血気が頭に集って、くらくらと揺れる。興奮のあまり声が出せず、ぱくぱくと口を動かしながら佳乃が頷くと、伊達はほっとしたように「断られなくてよかった」と微笑んだ。

「僕はそろそろ戻るね。次の種目がはじまる前に行かないと」

 グラウンドから次の種目の案内と出場生徒の集合を呼びかける放送が聞こえてくる。

 佳乃と違い、伊達は参加する種目がまだ残っている。そんな中で、保健室まで運び、さらに手当までさせて時間を取ってしまったのだ。

「ごめん! 私のことは気にしないで戻って!」

 名残惜しそうにしながらも、伊達は保健室を出て行った。廊下から聞こえる足音が小走りなことから、集合時間が迫っているのだろう。

 佳乃も立ち上がる。保健室に一人残っているわけにもいかない、無理せずゆっくり歩きながらグラウンドに戻ろうとした。

 そして生徒玄関に着いた時である。

「……あれ?」

 生徒玄関のベンチに座りこむ生徒に見覚えがあり、佳乃は近づいた。
 どっかりとベンチに座りこんで長い足を組む。特徴的な髪型に、遠くからでもわかる不機嫌なオーラ。

「剣淵、ここにいたんだ」

 声をかけると、その人物は怠そうに顔をあげた。

「……おう」

 それは剣淵奏斗なのだが、眉間に皺が寄っていて、むすっと苛立った表情で佳乃を睨みつけている。昼食後に会った時よりも機嫌が悪くなっているようだった。

 あまりの態度に避けて通りたいところだが、剣淵には恩がある。佳乃は剣淵に近づいて、改めてお礼を伝えた。

「二人三脚のこと。ありがとう」
「別に。俺もサボりたかったから――まさか転ぶとは思わなかったけどな」
「期待に添えずごめん。気合でどうにかできる問題じゃなかった……剣淵は、次何の種目にでるの?」

 合宿の後から剣淵に対しての意識は変わっていた。嫌なやつだとばかり思っていたが、合宿で話したことや雨の日曜日に助けてもらったことから、警戒心が和らいでいた。

 それは佳乃だけでなく剣淵もそうなのかもしれない、と思っていたのだ。だから二人三脚のパートナーを代わってくれた、少しは仲良くなってきたのかもしれない。

 そう考えて剣淵の返答を待っていた佳乃だったが、固く閉ざされた唇が動くことはない。何も語らず、佳乃を突き放すようにそっぽを向いていた。

 触れたら怪我をしそうな針のように鋭く、誰も寄せ付けない怒りの空気を放っているのだ。怒らせることをしてしまったかと考えてみるが、思いつくのは二人三脚の転倒程度。しかし転んだ程度でここまで機嫌が悪くなるとは思えない。

「……私、戻るね」

 居心地が悪く、佳乃は剣淵から逃げることを選んだ。言い残して背を向けても、剣淵から言葉が返ってくることはない。

 一体何が、剣淵を怒らせたのだろう。デートの喜びでいっぱいだったはずの頭が、急にしんと冷えていく。甘いものを食べたつもりが苦味しか感じない、そんな戸惑いを抱きながら佳乃は観客席に戻っていった。
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