恋じゃない愛じゃない
   *

2人で橋の上を歩く。

遠くで、定期的にゴトンゴトンという音を響かせながら電車が通る。しかしその電車がなに色なのか夜はわからない。ただの光の筋だ。

わたしは欄干に寄りかかった。

橋の下の川だって、本当は汚いことは知っているけれど、闇に隠されて、西区のほうの煌びやかなネオンをぼかし映し、むしろ綺麗にすら見える。

あそこには、ボタンを掛け間違えてしまったような、どこで曲がり角を曲がり間違えてしまったような、人たちがたくさんいて、ネオンの光に紛れ、夜に溶かされている。

陽央くんだって、掛け違いというか、曲がり間違いというか、一時の気の迷いみたいなものだ、きっと。

『せっかくだけど、無理。ごめん』

――結局、わたしは小切手にインクのシミをつけただけでなにも書けなかった。

その瞬間、陽央くんは落胆も怒りもせずに、

『……そうですか。そうですよね。突然変なこと言ってごめんなさい!』

頭を下げると、勢いがよすぎて、ゴンッと、鈍い音を立てて、テーブルにおでこをぶつけてしまった。

『だ、大丈夫? 結構な音したよ』

顔を上げた陽央くんは、いつもの、わたしが見慣れている雰囲気に戻っていて、いつもの可愛らしい笑顔を浮かべると、えへへ……、と恥ずかしそうにした。

会計時は、ギャルソンが自然と彼へ伝票を持ってきた。

高級店で、“超”なら尚更奢られることに気が引けてしまうが、マナーでもあるし、彼にとってもそこでの会計は格好がつくので、そこは甘えて会計が終わるのを待った。

ご馳走さまと、お礼は言ったものの、わたしはとんでもない人と関係を持ってしまったかもしれない……。

そう思うと、胃が爛れるような罪悪感で痛みだす。少しの吐き気はデザートの最後まで残さず完食したからかも。だって残すなんて、それこそ、とんでもない。

「あぶない」

陽央くんがわたしの手を取る。

抱き寄せられて、キスをされた。

キス自体も、彼からも、久しぶりのキスだった。

「……唇、かさついてないね」

「リップクリーム毎日かかさず塗ってました」

「そっか」

えらいねぇ、と褒めてあげたら、もう一度された。

あんなきらびやかなレストランにわたしの居場所はない。わたしもこの夜に溶かされに行こう──。

   *


「髪の毛、バリバリ」

陽央くんの頭に両手を伸ばして、わしゃわしゃ撫で回す。拍子に耳の縁に触れ、彼は、ぴくん、と反応し、わたしの手から逃げていく。逃げると言ってもベッドの上なので手の届く範囲内だ。

「わっ、やめてください」

「なんで」

「くすぐったいから……」

「ふうん」

代わりに顎の下を撫でてみる。

気持ちよくはなさそうだ。

しばらく撫でるがままの彼だったが、わたしもなにも反応がないので撫でるのに飽きてきて口元に手を伸ばすと、手のひらを甘噛みされた。

じゃれつきは、終わった。

彼の指先が腕を這いのぼり、うなじで楽しげに螺旋を描き、わたしの脈を活気づかせた。心臓の鼓動が速まり、胸から上が熱くなる。

陽央くんの口で顎の輪郭をなぞられ、唇にキスをされると思ったら、喉へ降りていった。リップクリームの成果が出たらしい、なめらかな唇でキスを与えられ、彼の腕の中で弓なりになると、天井を仰ぐ。

星がキラキラまたたいている。電球の、偽物の星。

この系列のホテルはどの部屋も星空付きなのだろうか。などと考えていたら、彼の口が喉のくぼみに達した。

さっきまでとは違い、期待に胃が期待にきゅっと締め付けられた。

下から乞うような口づけをされる。

ふわふわと思考をかき乱す、厄介なキス。

この恍惚さに没頭するわけにはいかない、いまこの時間は意地でもわたしが与える、そして、主導権を握る、と決めて、わたしは唇を引き離した。

「待て」

少々みだれた息をして言う。

「わん……」

陽央くんが、小さく控えめに吠えた。

犬のじゃれつきではないのに。

わたしは素早く唇にキスをする。

陽央くんはシーツを掴む。

「違う、わたしに掴まって」

そして、麗花って呼んで。

それから、自分を抑えながら、彼にゆっくりと、焦らすように猛攻をかけた。

布団のわたしの隣に潜り込んで来た陽央くんの上半身は白くて、すべすべで、ホワイトの板チョコレートみたいだ。フラットな感触が楽しくて何度も撫でる。

「……いまのままでもいいと思うんだよね」撫でながら、半ば独り言のように宙へわたしは呟く。「買われるのも飼うのも、抵抗あるし。やっぱり」

横を見ると陽央くんと目が合う。

「安田さんがそう言うなら、僕はそれでいいです」

そう言ってくれるのは正直楽だ。しかし、ふと疑問に思ったことを口に出す。

「きみって、なに考えるかわからない」

「僕はあなたの役に立ちたくて」

「それはもうわかったから。ほかに思っていることはなにかないの」

なにか。と、陽央くんは少し考えるそぶりをする。

「あの、」

「うん」

「……」

「え、なに?」

言ってごらん。と陽央くんに促す。

「……あの、なんで一番好きな人に一番汚い性欲なんてものをぶつけなきゃいけないのかな、って」

これには予想外だった。まさか事後に言われるとは思ってもみなかったことだ。

「うーん……。好きな人だから、一番汚いところも見せたいし見られたいと思うんじゃないの? 大事にしたいから手を出さないのは、わたしは、ちょっと違うと思う」

「そういうもの?」

彼の頭をくしゃくしゃと掻き分ける。

「そういうことを考えられるだけで、きみは十分大人だよ」

世の中にはそんなことなんか一切考えないやつも山ほどいるのだから。

さらさらの前髪の隙間から、くしゃっとした笑顔が見えた。

彼の腕がわたしの頭の位置に伸びてきて、自分の首と頭の間に腕が入ってくる。ちょうどいい高さで寝苦しさは感じない。

2人で天井の星を眺める。

「いま僕たちが見ている星って、何億年も、何十億年も、昔の姿なんですって。だから、ひとつとして同じ時間でない星々を、まとめて一緒に星空として眺めてるんです」

「すごいね。わたしたちの人生なんて爪の先だね」

彼は腕枕をしていないほうの手でわたしの頬を優しく撫でる。

「買われたくなったら飼いたくなったらいつでも言ってくださいね。僕、待ってますから……」

「またそんなことい、」

最後まで言い切る前に、陽央くんが子守唄のように低く鼻歌を歌い出した。

歌に意識がいくと眠気が襲ってくる。

陽央くんの鼻歌だけが世界を占めていた。

謎めいた声色だった。

彼のなにもかもが謎めいていた。

それに心地よさと一抹の不安を感じつつ、今夜のことで張りつめていた糸が徐々に緩み、体から力が抜けていく感覚を味わいながら、わたしは眠りにつく。









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