マイ・フェア・ダーリン
「旅行はともかく、燦々太郎はいつでも行けたんじゃないですか?」

人気ラーメン店の燦々太郎は、職場の最寄り駅裏手の路地にある。
いつもは車通勤だけど、たまに駅を利用するとき近くを通るとい~い匂いがするのだ。

「入りにくいんですよね、あそこ。こだわりの店っぽくて」

店構えはシンプル……というより、小汚ないほど。
簡素なサッシタイプの引戸に、色褪せた赤い暖簾がかかっているだけの店だ。
すぐ近くにはパチンコ屋があり、そこのお客さんが常連として通う流れができている。
引戸を開けながら「大ひとつ!」と言っている人を見かけたこともあって、一見さんお断り感があるのだ。

「食べるの遅いと怒られそうだし、女ひとりで入るにはハードル高めですよ。友達誘ってランチする雰囲気でもないし」

「確かに愛想はないですけど、怒ったりはしませんよ」

件のパチンコ店に車を停めて、数十メートル歩けば燦々太郎だ。

「『完全焼干し中華』ってどういう意味なんでしょうね」

「焼干し出汁をうたっていても、実際にはいろんな魚介出汁が混ざってることも多いんだそうです。燦々太郎は出汁は焼干しのみ、味付けも自家製の醤油のみ、というこだわりだそうですよ」

「そんなにこだわってるなら、食べ方変だと怒りません?」

「むしろラーメン作りに集中してて、お客さんのことなんて見てないと思います」

燦々太郎のサッシはガタついていて完全には閉まり切らず、そこから出汁と醤油の匂いがダダ漏れていた。

「ふああああ、いいにおーい!」

肺活量に問題があるので思いっきり吸い込むのにも不自由し、スーハースーハー少しずつ味わう。

「魚臭くて苦手だと言う人もいるけど、大丈夫そうですね」

笑いながら廣瀬さんがその匂いの中に入っていく。
店内はほぼ満席で、カウンターの端しか残っていない。

「カウンターでもいいですか?」

空いてる席にどうぞー、と丸投げした店員さんに代わり、廣瀬さんが気遣ってくれた。

「何でも大丈夫です」

カウンター前でコートを脱ぎ、イスの背もたれに掛けながら店内を見回した。
廣瀬さんが言っていたように、壁にサイズとトッピングの値段が書いているだけで、テーブルにはメニューもない。
お水もセルフサービスで、注文も直接厨房に呼び掛けるシステムらしい。

「中ひとつと大ひとつ!」

廣瀬さんが声をかけると、中のおじさんがチラッとこちらを見て「はーい」と返事をした。

「やっぱり、ひとりで来なくてよかったです」

声をひそめて言うと、廣瀬さんはふっと笑みを深めた。

「ご案内できて、俺もよかったです」
< 24 / 109 >

この作品をシェア

pagetop