オフィスの野獣

 ホテルの個室のドアを閉めた途端、その音が合図だったように、扉を背にして深い口付けを重ねた。
 絢爛なインテリアを僅かに照らす間接照明の明かりだけが頼りの部屋に、息苦しさと熱が籠る。息をするのも忘れるように、前野君は噛みつくようなキスをする。身体が熱い。
 照明の薄暗さで、ぼんやりする意識のせいで、前野君の顔もよく見えない。

 何十回と重ねる行為をしてからようやく大きく息を吐くと、物欲しそうにする前野君と見つめ合う。
 誘い込まれた中央のベッドに私の身体が深く沈むと、心の準備をする間もなく上から前野君が被さってくる。そしてまた口を塞ぐ。
 ほぼ初めて体験するキスだけど、前野君は上手い方だと思う。よくわからないけど、身体が溶けそうだ。


「……脱がしていい?」

 顔を離して、前野君が同意を求めてくる。
 ここまで来たら、引き返すのもなんだし……とにかく身体が熱い。

 慣れた手つきでブラウスのボタンが外されていく。
 自分でももっと怖がると思っていたけど、案外この状況を受け入れている。流されている自分がいるのはわかっているけど、昔の感情を思い出してしまうのが怖くて、思考を止める。

 はだけて露出した肌に舌が這うのを感じて、身体が反応する。優しく触れられて、撫でられる。変な声が漏れる度に、前野君が優しい言葉を添えてキスをする。前野君は、キスが好きらしい。
 きっとこのまま、何も考えなくていい。
 このまま前野君に委ねてしまえば、乗り越えられる気がする。あの人が言う通り、無意識に自分を縛っていた殻を破って、もっと前を向いて生きられる……。


「美弥子……」


 熱っぽい声で、前野君は私の名前を口にする。私を求めてくれる。
 あの夜の翌日の朝に、寝ぼけた彼にそう呼ばれたことがある。馴れ馴れしくて、でもどこかくすぐったい。


 そういえば……前野君の下の名前……何だっけ……。




 誰かに求められたいと思う?
 誰に自分を求められたいんだろう?


 あの野獣の言葉が、いつも私を悩ませる。
 そんな彼は、求めているのだろうか。誰を求めて森の中をフラフラしているんだろう。

 私も……誰でもいいわけじゃない。
 その言葉の重みを、彼自身はちゃんとわかっているのかはわからない。薄っぺらくて信用ならない奴だし。



 でも……私を変えてくれるのは、前野君で本当にいいの? 彼の甘さにつけこんで、全部投げやりになっていないだろうか?

 あいつも私も、あの言葉に、自分の気持ちに、もっと責任を持つべきじゃないの――?





「前野君……」


 彼の身体をそっと押し返した。
 静かになった個室には、外から雨の音が漏れていた。

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