【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
ハヤセミは呆けたように、苦しむ弥依彦をただただ黙って見下ろしていた。
一見、驚きを通り越して呆然としてしまっているように見えたが、すぐに気がつく。

(え……?違う……)

ぞ、とした。
己の主君を見下ろす双眸は、恐ろしいほどに冷静さを孕んでいた。


「……ハヤセミ殿?」

翠に訝し気に名を呼ばれ、視線を落としていたハヤセミは伺うように翠を向いた。

「助かる手段はあるのですか?」

やけに淡白な問いだった。

「ある。魂の繋がりを解けば助かる」

すぐに翠が答えた。

「……浅学で申し訳ありませんが、その繋がりは解けるものなのですか?」

疑わし気な様子でハヤセミが尋ねたが、カヤも同じ疑問を抱いていた。

巫術の事は全く分からないに等しいが、魂とやらはそんなにも容易に切ったり繋げたり出来るものなのだろうか。

「通常は無理だが……私ならば、どうにか解く事が出来るかもしれぬ」

弥依彦を見下ろしながら、翠が言った。


『翠様は強大な占いの力で、いつだってこの国を救って下さります』

いつだったか、ナツナがそう言っていた事を思い出す。
底の知れない翠の力なら、魂の繋がりを解き、ひいては弥依彦の命を救えるという事か。

自責の念を感じて暗い霧が立ち込めていたカヤの心が、僅かに晴れる。
焦燥していた砦の兵達の顔にも、安堵の表情が湧いた。


しかしただ一人、翠の表情は厳しいまま。

「だが、失敗すれば私も死ぬだろう」

その唇から紡がれたのは、そんな残酷なものだった。


しん、と静まり返った部屋の中、弥依彦の悲痛な声だけが響く。

「た、助けてくれ……死にたく、ないっ……」

必死に翠に手を伸ばすその顔は苦悶に満ちていた。
翠は暗い表情のまま、その手をそっと取り眉根を下げた。

「す、い……たすけっ……たすけて、くれ……」

「弥依彦殿……」

助けを乞う叫びを、憐れむような目で受け入れる。

力の無い人間という生き物は、為すすべが無くなった途端に、何かに祈るのだ。
かつてはカヤが。そして翠は今この時でさえ、その役目を代行している。

ふと、目の前の光景を見ているうちに、砦の壁に描かれたあの壁画が思い出された。

(あんなもの、祀るべきじゃない)

神なんて居ない。
人間が己の苦しみから逃げ、産み出した結果の存在でしか無いと言うのに。



「翠様。どうか繋がりを解いて頂けませんでしょうか」

ハヤセミが、翠に向かって静かに頭を下げた。
あまりにも飄々としたそれに、度肝を抜かれた。

冗談じゃない。翠に死ねと言っているも同然だ。
カヤは驚愕したが、意外にも言われた本人は眉根を寄せただけであった。

「良いのか?繋がりを解けば私と弥依彦殿はもう二度と夫婦にはなれぬ。呪いの再発を防ぐため、互いが互いに近づかぬようにする必要もあるだろう」

魂を繋げたとは言え2人はまだ夫婦となっていない。
明日の祝言を持って、正式な夫婦となるはずだったのだ。

しかし繋がりを解けば、夫婦になるどころか明日の祝言を執り行う事すら不可能だと言う事になる。

それは、翠が嫁に来ると浮かれていたハヤセミ側からすれば、大きな痛手になるに違いなかった。

ハヤセミの表情が目に見えて曇る。
だがしばしの沈黙の後、渋々と言った様子で小さく頷いた。

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