【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
この人の笑顔は、嬉しい。胸がくすぐったくなる。

会ったばかりの人にこんな気持ちを抱くなんて――――馬鹿げているだろうが、己の感情に嘘は付けなかった。



「あの、良かったらお名前を聞いても良いですか?」

知りたくて尋ねた。

もしかしたら教えてはくれないかもしれないし、偽の名前を言われるかもしれないが。

「……律だ」

案外あっさりと教えてくれたその名を、きっと本当だと思った。

響きの綺麗なその名は、意志の強そうな彼女そのものだった。

「律さんですね」

「……別に律で良い」

ぶっきら棒に言われ、カヤは更に顔を綻ばせた。


と、その時、コンコンと扉を叩く音が牢に響いた。

「――――カヤ?大丈夫か?」

「あ、はい!」

心配そうな翠の声が扉の向こう側から聞こえ、ようやく随分と時間が経っていた事に気が付く。

カヤは慌てて立ち上がると、内側から扉を開いた。

牢のすぐ外には翠が立っていて、カヤの顔を見るなり安堵の溜息を付いた。

「遅かったから心配したぞ」

「申し訳ありません……えっと、特に怪しい物は持っていなかったみたいです」

よもや裸に見惚れていて、隅々までは確認出来ませんでした――――とは言えず、カヤは翠から微妙に視線を逸らしながら言った。

「そうか、分かった」

翠はカヤとすれ違うようにして牢の中に足を踏み入れると、律の前に腕を組みながら仁王立ちした。

「カヤに何かすれば、遠慮なく首を刎ねてやろうと思ったのだが。残念だ」

「おあいにく様だな……わ、っぷ!」

翠は肩に羽織っていた衣を、唐突に律に投げつけた。

顔から思い切り衣を被った律は、ジタバタと布の下で足掻く。

「凍え死なれても困るからな。衣の詫びだ」

「殺す気か!」と、ようやく衣の隙間から顔を出した律が叫んだが、翠はとうに背を向けていて、カヤの肩に手を置いていた。

「カヤ、ひとまず今日は戻ろう。タケルは兵を呼んでくるまで見張りを頼む」

「承知しました」

そう促され、カヤと翠はタケルを残して牢を出た。

最後に一度だけ律を振り返ったが、重たい牢の扉はすぐに閉ってしまい、その姿は完全に阻まれてしまった。



「あの、翠……」

スタスタと出口に向かっていく翠を追いかけながら、カヤはその背中に向かって声を呼びかけた。

翠が怒っているのか、いないのか、良く分からなかった。

否――――きっと怒っているだろう。

不安が声色に出ていたのかもしれない。

振り返った翠は何やら複雑そうな表情をしていたけれど、カヤの顔を見ると、仕方無さそうな笑みを浮かべた。

「悪いようにはしないから安心しろ。悪かったよ、カヤに庇うような真似をさせて」

頬を撫でてくれた指はいつも通り優しかった。

カヤは安心し、少し歩みを速めて翠の隣に並んだ。

「衣、あげちゃって良かったの?」

「あげてない。貸したんだ」

「素直じゃないなあ」

声を上げて笑うと、不意に翠の目が厳しく細まった。

「……言っておくけど後から説教だからな、カヤ」

「…………え?」

「当然だろ」

そんなぁ、と嘆いてしまいそうになった。

「ど、どうしても……?」

一縷の望みを込めてみたが、どうしてもだ、と翠にあっさり一蹴された。


(嗚呼、嘘付くのはこれっきりにしよう……)

愕然と肩を落とし、カヤはそう誓ったのだった。

ちなみに恐ろしい事に、お説教はカヤが寝落ちするまで続いた。







律が忽然と姿を消した――――そんな報せが入ったのは、それからほんの二日後の事だった。



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