フェイク×ラバー

「そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな? 相手は狼谷くんなんだし」

「これはけじめですから。……でも今日はもう、帰ります」

 クリーニング代を渡すいい案も浮かばないし、いつまでも職場に残っていないで、さっさと帰ろう。

「先輩はまだ帰らないんですか?」

「僕もそろそろ帰るよ。これが終わったらね。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 犬飼にぺこりと頭を下げて、美雪は更衣室へ向かうため、総務部を出る。

「────雀野さん」

 と同時に、待っていましたと言わんばかりのタイミングで、名前を呼ばれた。反射的に美雪は振り返り、そして驚愕する。

「え、あ、え?」

 自分を呼んだのは、予想外の人物──狼谷 はじめだったのだ。
 あまりの驚きに、言葉が出てこない。

「もう帰るのかな?」

「は、はい」

 動けずにいる美雪と違い、はじめは普段通りだ。
 ただシャツは着替えている。本当に着替えがあったのか。
 そこだけは安心できた。

「この後何か、用事はあるかな?」

「と、特にありませんけど……」

 周囲の視線が痛い、ような気がする。
 お願いだから、こっちを見ないで。この人と私は、親しい間柄ではないんです。
 だからどうか、そんな目でこっちを見ないで。

「それはよかった。じゃあこの後、お茶に誘っても?」

「…………お茶、ですか?」

 何かの聞き間違いだろうか?
 今、お茶に誘われたような気がする。
 何故? どうして?

 次々と浮かび上がる疑問符に、美雪自身も追いつけない。

「えっと、どうして……?」

「話したいことがあるんだ。できればふたりきりで」

「それは……その」

「──構わないよね?」

 はじめの誘いを、美雪は断ろうと思った。
 けれどできなかった。

 だって狼谷 はじめの笑顔が、ものすごく怖かったのだ。
 張り付けたような“王子様”の笑顔に、射抜くような冷たい瞳──そのアンバランスさが恐ろしくて、美雪は誘いを断ることができず、ただ頷くことしかできなかった。


 ***


 以上が、“発端”と“過程”のすべてである。

 そして“本題”が、ここから始まる。

「よかったら夕食もごちそうするよ。食べたいものはあるかな?」

「いえ、お気遣いなく。紅茶だけで十分ですので」

 はじめを前にして、食事がのどを通るはずもない。
 というかさっさと帰りたい。

「そうか、それは残念。じゃあ次の機会にしようか」

「…………」

 次はないと思います。
 本音を吐き出そうかと思ったが、今は余計なことは言わずにおこう。

「手は大丈夫だった?」

「あ、はい、全然大丈夫です。狼谷さんは────」

「俺はあの後、大変だったよ」

「そ、れは……」

 思ってもいなかった返答に、言葉が詰まる。
 いや、大変だったはずだ。シャツは見事にカフェラテ色に染まっていたのだから。

 ただはじめ自身が「大変だった」と言うのは、予想外だった。
 勝手ながら、そういうことを言わない人だと思っていたから。

「本当に大変だったよ。シャツの替えがあったのは奇跡にも近いよね。だって職場でコーヒーをかけられるなんて、誰も想像しないし。ああ、でも、火傷はしなかったよ。不幸中の幸い、ってやつだね」



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