狼を甘くするためのレシピ〜*
 彼が座っているのはハイカウンター。
 少し離れたところに立っているバーテンがチラリと彼のグラスに目をやったが、声をかけることもなく、そのまま視線を戻した。
 恐らく、呼ばれるまで近づかないというのが、ひとつのルールになっているのだろう。

 彼の名は氷室仁(ひむろ じん)。

 客であると同時に店のオーナーでもある。

 今年三十歳になったばかりだが、彼の肩書はちょっと多い。
 代表的なものは氷室家が経営する警備会社の専務取締役だが、このバーのオーナー以外にも、他にもいくつか別の名刺を持っている御曹司だ。

 ふと、仁が手にするグラスの淵から、ひとつぶの水滴が落ちた。

 コースターに吸い込まれていく雫がどこか哀し気に見えるのは、流れるジャズが別れを歌っているからかもしれないが。
 でも、彼の隣に座っている彼女は思う。
 グラスから落ちる雫は全て、過去となった彼の恋人たちの瞳からこぼれ落ちた涙なのかもしれないと――。

 コトッ。

 彼女がそんなことを思っている横で、彼は容赦なくグラスをコースターの上に置いた。
 と同時に、恋人たちの涙が沈黙する。

 なにもかもが妙に彼らしいと、彼女は密かにため息をつく。



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