ハナノユメ


堅牢な石積みの古城は、旧時代には王宮として使われていたらしいが、今は全寮制の学校となっていた。ここははるか昔に東洋と西洋の文化が出会った神秘の国。黒海に面した絶壁の上に建つルーセ王立学校には、祝福と厄災を学ぶ少年少女が、身分や人種を超えて集まっている。

ルーセ王立学校の新四年生、高等部に進級した花という名の少女は、過ごしやすくなってきた晩夏の午後に心を弾ませ、森へと続く城沿いの木立の中を歩いていた。
 青々とした芝生は踏みしめる度に渇いた音がした。見上げれば生い茂った木々の向こうの空は青く高く、綿菓子のような雲が所々浮かんでいる。爽やかな風が葉を揺らせば地面に落ちた影も揺れた。
大きな樫の木の前まで来ると、花はでこぼこした幹に足を掛けた。初めて登ってみたときは、乾いた樹の荒い肌触りは花の白い手を容易く傷つけたが、今では傷つかずに登る術を知っていた。
左に突き出た太い枝へ手を伸ばした。けれど、それはいつも通りに固い枝の触感ではなかった。何か柔かいものが、つかんだ瞬間にびくんと跳ね上がる。それから「うわっ」という声が上から降ってきて、花の手は行き場を失い、小さく叫んだ時にはもう遅く、重力には逆らえない。慌てて足場を確保し、別の場所につかまろうとしたけれど、くらり、と後ろにのけぞり返り、落下するのを感じだ。
 落ち、る。
けれど、襲ってきたのは全身が地面に打ち付けられる痛みではなく、腕が千切れそうな痛みだった。足はふらふらと宙に浮いている。どうやら落下は免れたらしい。ぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開けてみると、話をしたことはないがよく見知った顔が花の腕を掴んでいた。まさか、何でここに? と、意外な人物に腕の痛みも忘れて呆けていたら、彼は食いしばった歯の隙間から声を漏らすように叫んだ。
「はやく、つかまって、のぼれ!」
 言われた通りすぐに木の枝につかまると、腕を引っ張られながら、花はその人物がいる幹に這い登った。その人は花を引っ張りあげると、少し荒い息を整えながら黒髪をかき上げ、木の幹にもたれる。それから大きく一息つく。花も痺れる腕をさすりながら座りなおした。麻痺したみたいになっているけれど、しばらくたてば治るだろう。それよりも花は彼を間近で見ているということにどうにも奇妙な感覚を覚えていた。彼のことはよく知っている。同じ学年の、あの黒川煌星だ。
「どうしてこんなとこにいるの、黒川くん?」
「それはこっちの台詞だ。それより、他に言うことがあるだろ」
「あ、そうだ、ごめん。えっと、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「それであなたはどうして、」
 ここにいるの? と問おうとしたけれど、煌星は人差し指を口の前に持ってゆき、目で花を黙らせた。首をかしげると、花を通り越した背後の何かに視線を送る。促されて振り返ってみるけれど、校舎の長細く区切られた幾つもの窓が見えるだけだった。花は煌星に向き直り口を開こうとしたが、彼は黙って目を閉じていた。そこで花はようやく、夏の日差しを縫うように流れてくる微かなメロディに気づく。耳を澄ましてみると、微かだけれど、でも確かに美しい旋律が聞こえてきた。ピアノの音だ。
「綺麗ね」
「だろ」
「”トロイメライ”、シューマンね。誰が弾いているのだろう」
「小松さん。ここから見えるよ、右から二番目の窓」
「あ、ほんとう、小松さんだ。あんな端の教室でピアノ弾いてるの、知らなかったなあ。それに噂通りすごく上手い」
 花が感心すると、煌星は首を傾けた。
「知っているの? 彼女のこと」
「だって同じ学年で、女子寮で一緒で、わたしもピアノやっているもの。顔位知っているよ」
 そこで煌星はようやく花に関心を持ったらしい。花は顔をまじまじと見つめられて、肩をすくめた。彼は少し決まりが悪そうに耳の後ろを掻いた。
「ごめん、そういえば君、誰だっけ」
「藍野花」
「そう、花だ。顔は知っていたよ。俺は、」
「黒川煌星でしょ?」
「ああ」
 無理もない、花はそう目立つ要素も何もない一般生徒だったから。顔だけでも知っていたのには驚きだ。同学年だから、それくらいは当たり前なのかもしれないけれど。黒川煌星が怪訝な顔をしているので花は説明した。
「東の地の出身なのよわたし。だから宗家の嫡男、黒川煌星のことは知っているの」
「なるほど一族のものか」
「末端過ぎてほとんど他人だけれどね」
 黒川家とはルーセ王建の元となった四家の一角であり、古くから音楽の才で祝福をあつかう一族であった。ルーセ東の地を治め、何人もの優れた祝福を持つ音楽家を輩出している。時期当主とされる黒川煌星は、当代きっての才能を持つと噂されていた。
 ここルーセ王立学校は、身分を問わない。優れた祝福をもつ学生に広く門が開かれている。祝福は血に宿るため良家の出身が多かったけれど、平民出身のものも半分近くいた。そのため身分は公にはされないが、その人の背景はおのずと所作や言動からも現れるものであるし、人の口に戸はたてられない。黒川煌星が四家の時期当主というのは、公然の秘密であった。
 花はしばらく煌星と一緒に、トロイメライのゆっくりと、けれどどこか物悲しい響きに酔いしれたが、その彼の顔があまりにも幸せそうだったのに気づいて、思わず微笑んでしまった。
「小松さんが好きなの?」
「うん? そうかな、どうだろう。考えたことなかったけれど」
 煌星は少しの間逡巡したあと、頷いた。
「そうだね、スキだ」
「つまんないなあ、もっと焦ったり照れたりしてよ」
「何だそれ」
 煌星はくつくつと笑うので、花は拍子抜けしてしまった。呑気なようでいて、そうゆうことに慣れてそうで嫌な感じだ。そうゆうこと、とはつまり女の子と男の子が付き合ったりするあれだ。花は十五になったけれど、まだ誰とも付き合ったことは無かった。
煌星は花に向き直り、自分の口に手を当てて花を見つめた。途端少し居心地が悪くなる。黒川煌星は、涼し気な印象の端正な顔をしているが、切れ長の瞳には華があり、背が高く見栄えの良い少年だった。見目整った男の人に見つめられて、花は自分の身だしなみが気になった。煌星はにやりと微笑んだ。
「そうゆう花は、ラシェッドが好きなんだ」
「えっ、なんで? わかったの?」
「本当かよ? へー、カマかけてみただけなのにな。ここからはほら、あいつがひとりで練習をしているのがよく見えるから。そっか、へえ、花はラシェッドが。あいつに言ったらどんな反応するかな」
花は頬がどんどん熱くなっていくのを感じた。まさか、人に知られてしまうとは思わなかった。今まで誰にもこの場所でラシェッドを見ていることは話したことがなかったのだ。
「なるほど、そういう反応をすれば良かったのか。赤くなって、かーわいい」
「からかわないでよ」
 楽しそうに笑う煌星に頬を膨らませながら、花は森の開けたところにある広場を眺めた。煌星の言う通り、ここからはあの人が良く見えるのだ。ラシェッドが。
 ラシェッドはミルクチョコレート色の肌を持ち、くっきりとした目鼻立ちと悪戯っぽいきらきらした瞳が印象的な男子生徒だ。ルーセの伝統的な舞踊と中東の舞踊を合わせた新しい舞踊の先駆者として注目を集めている。ラシェッドと煌星は、いつもふたりでつるんでいた。この才能にあふれた二人組は、学年だけでなく学校中の生徒が知っていたし、憧れる生徒は多かった。花のこの気持ちも恋というよりは憧れに近いかもしれないけれど、花はいつもここで、ラシェッドの練習を眺めていたのだ。
「言わないでね?」
「なにが?」
「ラシェッドに、だからその、わたしが好きだって。わたしも小松さんに言わないから」
「俺は別に言ってもいいけど」
「え、なんで?」
「だって、そうしたら俺は少なくともあの人の人生に参加できるだろ? とりあえず、意識してもらえる。むしろ小松さんに仄めかしておいて欲しいくらいだよ、存在も知られてないままじゃ何もはじまらない。それで、そうだな、きっとラシェッドも花のこと知らないよ、花はそれでいいの?」
「よくない、けど。憧れてるだけだから、このままでいいの」
「ふーん、まあ、俺がとやかく言うことじゃないからさ。でも、あ、そうだ!」
 煌星は何か良いアイデアを思いついたようで、指をパチンと鳴らした。それから肩をつかまれる。
「ふたりで協力すればいいんだ」
「協力?」
「そう。ここで会ったのも何かの縁、俺はちょうどあいつと親友だし、花も小松さんと知り合いだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。だろ?」
「う、ん。そうかな」
「そうなんだよ」
 とても楽しそうだ。というより、煌星は新しい玩具を見つけた子どもみたいだ。花は瞳を泳がせたが、煌星も自分と同じような気持ちを小松さんに抱いている。そう思ったら、どうにも他人事には思えなくて、協力してあげてもいいかなあ、と思った。それに、煌星にはああ言ったけど、花も、やっぱり、ラシェッドの人生の中の登場人物になってみたいのだ。
「具体的に協力って、何をすればいいの」
「そうだな。まずはお互いの存在を認識させ、株をあげる作戦で行こう」
「株を上げる?」
「褒めときゃいいんだよ」
「わたしが褒めるの? あなたを?」
「小松さんの前でな。俺はラシェッドに花を……あ、知り合ったばかりで俺の褒めるところがないか?」
「ううん、そうじゃなくて、……というかむしろわたしのどこを褒めるの」
「上手くやっておくよ」
「黒川くん、でも」
「煌星でいいよ」
 言いかけた花をよそに、煌星はするすると木を降りて、軽く芝生の上に着地した。それからまだ木の上にいる花を見上げて、陽の光に少し眩しそうに、でもにこやかに笑う。
「じゃあ、同盟成立。な?」
 何が言いたかったのかも忘れて、花もつられてへらっと笑ってしまった。
黒川煌星。
枝の隙間から、小さくなってゆく彼の背中を見ながら、屈託のない笑顔を反芻した。
笑うと途端に、綺麗な顔が親しみやすくなる。抱いていたイメージとは少し違って、人懐こい人なんだな。
 煌星が去ると、花はトロイメライを聞きながら、空を眺めた。ラシェッドは練習に来るかしら。煌星に聞いておけば良かったと少し後悔したが、こうして彼を待っている時間もまた秘密なのだ。それは小さな宝箱をそっとのぞく感覚に似ている。美しい細工の施してあるオルゴール付きの小物入れの中に、ひとつ大切なおもちゃの指輪を入れて、毎日のぞいていた子どもの頃のようなわくわくした気持ち。
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