一葉恋慕
今の一葉はかつての一葉ではない。「うもれ木」のお蝶でもなければまして卯の花の娘でもない。「世の人はよも知らじかし世の人の知らぬ道をもたどる身なれば」と歌に詠んだ通りのいわば‘修羅場’をくぐって来た身である。一面識もない身でいきなり男のもとへと借金を申し込みに行った。それほどに切羽詰まっていて後がなかったのだが、しかしたった今もご同様である。細くはあったが形のいい、意志の強そうな眉を寄せて、いやそればかりかうすら笑いさえも浮かべて、丸山福山町の我が家へと重い足をはこぶのだった。男と云えば一葉にとってのそれははっきり二種類、いや正確に云えば四種類あった。女を支えるのは男の義務とでもするいわば金づるとしての男と、いま一方のそれははからずも交誼を得ることとなった青年文士たち、平田禿木や馬場孤蝶、戸川秋骨ら同人誌「文学界」の面々である。青雲の気概に充ちた彼らのことを思うとさきほどの自嘲的な笑みとはまるで違う、なんとも愛しげな、あたかも血肉を分けた弟たちを思うような、やさしげな笑みが一葉の顔に浮かんでくる。ひょっとして彼らのうちの一人でも来て居はしまいか、重かった歩調がいささかでも軽くなる一葉であった。あとの二種類の男については今は述べずに後述しよう。一葉の本地へと深く介入してくる二種類の男たち、なかんずく一種類ではあるからだ。 
 今の四車線もあるような広い通りとは比べものにならない、しかし人力車や荷車が行き交う白山通りを横切って本郷崖下の新開地へと入って行く。銘酒屋が立ち並ぶ、敢て云えばいかがわしい所へと、である。時刻は夕時で各銘酒屋の軒先には早くも女たちが立って、勤め帰りの職人たちや若旦那衆の袖を引いていた。どこかで見たような千陰流の達筆な筆跡で「御料理仕出し云々(しかじか)」と書かれている店の隣がわが家である。首尾を訊くだろう母や妹のことを思うと気が重い。ため息を吐いて二三軒前まで来た時にいきなり騒ぎが持ち上がった。
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