毒林檎と鉄仮面
それから一週間が経った。あれからノアは一度も教室に来ていない。この一週間という短くも長くも感じられる期間の間に彼女の噂はあっという間に広がった。今ではこの学校であの謎の少女の存在を知らないものは居ない。そして、驚くことに彼女の本名を知る生徒は誰も居なかった。クラスの座席表や出欠表を確認してもそこにあるのは“ノア”という名前だけだった。彼女は今、何処で何をしているんだろうか。そしてどんな手を使って名前を出さないなんてこと出来るんだ。そこは単純な疑問だった。僕の頭の片隅でブルーアメジストが薄暗く光りを宿していた。
 「ミヤザワくん、次授業移動だよ。体調良くないの?大丈夫?保健室行こうか?」
 僕の名前を誰かが呼んで質問攻めした。せめて疑問系は文の中に二つにしてくれ。僕にはそれが手一杯だ。机に突っ伏していた顔をゆっくりと上げると優しそうな顔の眉を下げ、心配そうにしている女子生徒が一人。
 「あぁ、杉咲さん。ごめんね、大丈夫。声かけてくれてありがとう」
 笑わない男なんてちょっとダサい、しかもなんも捻りのないつまらないあだ名をつけられている僕にでも声をかけてくれる人はいる。杉咲さんはその一人だ。彼女とは一年生からクラスが一緒で、今年も去年同様、他の人に話しかけるのと変わらずに声をかけてくれる。
 「朝から顔色悪そうだったから、実は心配だったんだよね」
 「ちょっと今日は寝不足で、それで顔色悪く見えるのかも」
 「大丈夫?保健室行く?」
 「いや、これくらい平気。慣れてるから」
 「そっか、ひどい時は言ってね。私一応保健委員だから」
 そう言って微笑む姿はまるで花のようだった。流石学年一モテる女は違うなぁ、と僕は心の中で納得した。見た目も可愛くてみんなに優しくて、本当にいい子だ。それを女子は八方美人だの何だの言うけど、そういうお前らの方が性格も見た目も終わってると思う。僕は君の味方だ、杉咲さん。
 「みんな行っちゃったみたいだね。私たちも急ごう!」
 「そうだね」


瞼が重い。ゆっくりと目を開けると眩しい光が一斉に僕の眼孔を突き刺す。目が痛い。少し目を慣らしてから辺りを見ると僕は何故か保健室のベッドの上に居た。普通に驚いたし、焦った。なんせ記憶が無い。確か杉咲さんと話してて、移動教室に向かって…。僕の頭ではこれ以上のことは思い出せず、脳が思考をストップさせた。窓から風が通って涼しい。寝ていたからか、手で拭うと少し湿るくらいに僕の額は汗ばんでいた。外からは体育の授業をしている男子の熱い声が遠くの方から聞こえる。
 「あっ、起きた」
 保健室の先生が僕が起きたことに気づいて近寄ってくる。胸元のほくろに思わず目がいく。
 「どんだけ寝てないの。もう放課後だよ。三時間目からぐっすり寝やがって。お昼寝の域を超えてんだよ。寝不足だって?杉咲さんが言ってたよ。今日は家帰ってちゃんと寝なよ」
 「放課後…」
 じゃあさっきの男子の熱い声は体育じゃなくて部活か…。どうりで少し声が力んで聞こえた訳だ。体育はお遊び、部活はマジだもんな。そんなことを考えている僕を先生は睨みつける。
 「女の子に運んでもらったんだからね?めっちゃくちゃ感謝しときなよ」
 「え?」
 「杉咲さんがここまで運んでくれたのよ。すっごく心配してたからね。あんまり心配かけちゃダメよ」
 「はぁ、」
 彼女が?ここまで?どんだけ人が良いんだよ、っていうかよくここまで一人で運べたな。重かっただろうな。僕なんか放っておけば良かったのに。
 「とりあえず今日はもう帰って大丈夫だよ。もう一回言っとくけど、ちゃんと寝なよ」
 「はい。あの、お世話になりました」
 「次寝不足で来たらぶっ飛ばす、ってのは嘘だけど怒ります」
 「はい…」
 僕は一礼して保健室の扉を閉める。ふぅ、とため息を一つ。学校で他人と一日でこんなに会話をするのはなんだか久しぶりで少し緊張した。喉の途中で声がつっかえる感じ。赤橙に染まり始めた廊下に長い影が一つ。部活中の人達の熱い声が耳の中で遠のいていく。辺りは静けさに満ち、僕はこの世界に一人取り残されたような気持ちになった。ぼぅっと下を床の影を見ていると、遠くの方から声が聞こえることに気づく。とても美しくて繊細で、それでいて優しい声だ。幻聴かと思ったけどそれはやはり聞こえてくる。保健室のある真っ直ぐな廊下の突き当たりの空き教室から。僕はその時、なんだか興味を持ってしまった。その声の主が誰なのか。普段は絶対にこんなことないのに。きっと夏の暑さにあてられてしまったんだろう。ゆっくりとその空き教室に向かって歩みを進める。空き教室に着くと、やっぱりあの繊細な声はこの中から聞こえてくる。この声の主は、一体どんな人なんだろう。口の中に含まれた唾を、どこぞのマンガかのようにゴクリと音を鳴らして飲み込む。ドアノブを握る。回そうとした時ふと疑問に思う。こんな空き教室から何故歌声が聞こえるのか。どこの部活にもこの部屋は使われていない筈だ。僕の好奇心は益々掻き立てられた。僕はドアノブを回し部屋に入る。真っ先に目に入ったのは真っ白な身躯とブルーアメジスト。部屋は暗くなっていた。窓には分厚いカーテン。そしてそこはエアコンが完備されていた。人工的な風が吹き、僕の前髪を少し揺らす。そこにあったのは真っ暗な空間と裸の少女一つ。声の主は驚いて歌うのをすぐにやめた。宝石のような瞳を丸くしてこちらを見つめている。僕も驚いた。声の主が気になって好奇心に駆られて入ってみたらそこには裸の少女。どうすることが正解なのか分からず僕はそこに立ち尽くした。先に声を出したのは彼女の方だった。
「あれ?君…あれだ、死んだ魚みたいな…なんでこの部屋に?」
 裸のまま僕の方に少女が近づいてくる。友達さえいない僕にとってこれは刺激が強すぎた。彼女が何かを言っていることは分かるが全く耳に入ってこなかった。その耳に入ってこない話に答える余裕もゼロだ。彼女の身躯《しんく》はミロのヴィーナスよりも遥かに美しかった。ミロのヴィーナスを僕は写真でしか見たことがないが、直接拝んだ人たちはこんな気持ちだったのだろうか。後ろの扉がゆっくりと閉まる。先程まで僅かに差し込んでいた光も遮断され、カーテンから差し込む赤橙だけで照らされた部屋はとても薄暗い。その部屋には僕を死んだ魚と罵ったノアと名乗る美しい少女が立っていた。突然の再開に僕の時は止まる。僕に近づいた彼女は僕を母指《ははゆび》でつつく。そして再び僕の時は流れ出し、僕は慌てて目を閉じる。
「どうしたの?」
 彼女が不思議だと言わんばかりの口調で声をかける。
「ふ、服を…着てください」
 僕はたじろぐ。
「あぁ、ごめんごめん、忘れてた」
 彼女がガサゴソと音を立ててなにかを身にまとう音が聞こえだす。音が止んでしばらくしてから僕はゆっくりと目を開いた。そこには半袖でTシャツにパンツ一丁のノアの姿が有り。まぁ裸よりはマシだと思い、僕は何も言わなかった。ノアはにやりと笑って僕の顔を覗き込んだ。
「君、女性の裸を見るのはもしかして初めて?」
 そう言う彼女の口から鋭い八重歯が一本覗く。僕の喉がゴクリと音を立てる。それと同時に大して仲良くもない男によくそんなこと簡単に聞けるなと思った。
「初めてじゃ悪いかよ」
 そう言って近くにあった折りたたみ式の椅子に僕は腰をかける。
「いやぁ、意外だなぁって」
 彼女は僕のことをまだ小馬鹿にしたようににやにやしながら話す。
「だって君、顔は割と綺麗だしモテるんじゃないかなぁって思ったんだけど、違うの?」
「クラスの奴言ってただろ。僕は変なやつだから僕のこと好きな人なんて誰も居ないよ。」
「そうかしら?」
「そうだよ」
「私はそう思わないけど」
「なんでだよ」
「秘密」
 彼女はそう言って少し微笑む。その笑顔があまりにも綺麗なもんだから、ずっと見てたらそのうち変な気持ちが湧いくる気がして僕は横に目をそらした。
「…変なの」
 そう僕が言うとすぐに彼女は言葉を繋ぐ。
「君もね」
「まぁそれは否定しない」
「私君みたいな変わった人嫌いじゃないよ」
「死んだ魚みたいなやつがお好みですか」
「そういうわけじゃないんだけどね、ほら私と君は変わったもの同士仲間さ仲間」
「仲間、ね」
「あの時強く言ったことは詫びるよ、だから仲良くしようじゃないか。えっと…名前…」
「ミヤザワ。ミヤザワショウゴ」
「ショウゴか、おーけぃショウゴ。これから仲良くしようぜ!」
「急なアメリカンスタイルについていけない…」
「あははっ、こういうのも悪くないでしょ?」
 少しテンションの高い彼女に合わせることなど僕が出来るはずもなく、僕はいつも通りのテンションで言葉を使う。
「ちょっと思ってたんだけど、君ってなんか多重人格っぽい」
 彼女は斜め上を見ながら続ける。
「そうかもね?あと、私は君じゃない。“ノア”だよ」
 あと、っていう会話の繋げ方がおかしい。僕は付け足す物が前の会話と全く関係がないことがとても気になった。だがそれを口にはしない。
「ノアね。転入初日に言ってたよね。それって本名じゃないんだっけ、なんでノアなの」
「これには海よりも深い訳がありましてってのは嘘で、アルビノの最初と最後とって逆さまにしてノア。前の学校の人がつけてくれたんだ。それ以上は、まだ秘密」
「秘密主義だね」
「謎の多い女って好かれるでしょ?」
「そんなことないと思うけど」
 そんな会話を続けているとカーテンから差し込んでいた僅かな赤橙はすっかり黒く染まっていた。アルビノとは何なのか聞くタイミングをすっかり逃してしまったな。時計を見ると7時前を指していた。彼女の美しさに囚われた僕としてはこのままずっと話していたいところだが、流石に学校が閉まってしまう。
「僕そろそろ帰るよ」
「そっか、気をつけてね」
 扉に向かって歩き出し、扉の前について丸いドアノブを握る。
「あのさ、」
 声を発したのは彼女だった。僕は振り向き彼女のブルーアメジストを見つめる。
「私毎日ここにいるから、明日また来てもいいよ。なんか君のこと気に入っちゃった」
「気が向いたらね」
「それ女子が行かない時のセリフだよ」
「僕は男子だよ、女子のそれとは違う」
「そっか、じゃあまた明日」
「うん。あ、あの歌なんていうやつ。すごく良かった」
「げ、あれ聞いてたのか。恥ずかしいな」
「だってあれが聞こえたからこの部屋に来たんだよ」
「そうだったのね、じゃあまた歌ってなきゃ。タイトルが気になるなら次来た時に教えてあげる」
「了解」
 僕は扉を開けて外に出た。彼女の顔は見ずに。


僕はその夜、ちゃんと寝なよと言う保健室の先生の言いつけを守り、九時にはベッドに入った。だけれど、考え事をしていると気付いたら12時を回っていた。

 
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