Inorganic Freeway
 水曜日のオフィスは女たちが綺麗だ。彼女たちのロッカーの中ではそれぞれに装いを凝らされた衣装が5時になるのを待っている。彼女らの頭の中も最早ビジネスのことよりはアフター5のショッピングルートだのデートコースだのが占めているに違いない。麻衣子も久し振りに会う優介のことを考えるともなしに考えていた。
「村上さん、今日は何か予定あり?」
「うん、あり」
「なあんだ残念」
「何かあるの?」
「ビアガーデンに行こうかって話が出てるの」
「でも今日は夕方から雨よ」
「えー、晴れそうな空よぉ」
「うんにゃ、この黄色い空は雨を降らす空よ」
 短大卒なので麻衣子と同期入社ではあるが2歳下の女が疑わしそうに窓外の黄色くくすんだ空を見上げた。早くお嫁に行きたいと純粋に願う22歳になったばかりのこの女はまだバージンだなと麻衣子は思った。バージンやセックスを覚え始めた女に限って危な気な行動を故意にするものだ。高校時代の麻衣子がそうだった。大人の女は危ないのだと信じていた。物欲し気な女を大人の男は求めているのだとも思っていた。だが、そうではないのだということを誠と暮らしてから知らされた。彼が大人だったわけではない。麻衣子が大人にならなければやっていけないような男だったのだ。
「マザコン坊やだったんじゃない?」
 と友人に言われた。確かにそうだ。でも男ってみんなそうだ。どんな男も一旦セックスの壁を越えてしまうと横柄になり猜疑的になり、女に母親と同じ一面を求めるのだ。
  
 5時を目前にして待ってましたとばかりに雨が降り出した。かなりの土砂降りだ。ロッカーの中でハンガーにぶら下がった服たちががっくりと肩を落とす様子が目に見えるようだ。こんな雨でも優介は飲みに行くと言うだろうか、と麻衣子は自分でも面倒になりかけているために行かない言い訳を考えていた。すると麻衣子のデスクの電話が鳴った。誠だと直感した。出たくない。だが周りが変に思う。
「T本社企画室です」
「麻衣子ぉ」
 語尾をだらしなく伸ばすのは誠の話し方の最も嫌いな部分の1つだ。女子大生だとて社会に出ればもう少しシャキッとした言葉遣いをするようになるというのに誠は全く成長していない。これでよく高校教師が務まるものだ。みてくれが良いと受け入れてしまうのが女子高生の浅はかで可愛いところなのだろうが。
「今朝は随分早く出たんだな」
「いつも通りですけど」
「嘘吐け。電話に出なかったじゃないか」
 何て内容の無い会話だろう。麻衣子が電話に出なかったことを今この場で説明したり詫びたりする必要があるだろうか。おまけに嘘吐き呼ばわり。お前なんかに嘘を吐いてどうする!と叫びたい気持ちを抑えて極めてドライに麻衣子は話す。すると相手は余計に苛立つ。
「電話が鳴ってるのは知ってました」
「知ってて出なかったのかぁ」
「もう出掛けるところだったのよ」
「ちょっと戻って出れば良いだろ」
 電話に出る出ないのことぐらいでこれ以上誠と話すのは麻衣子には苦痛だ。
「何か用なの?」
 少し語気を強くして麻衣子は誠の言葉を遮った。彼はまだ何か言いた気だ。自分のしていることの情け無さに全く気付きもしない。女々しいだけの男である。
「お前のライター持って来ちゃってさぁ」
(会う口実を作るためにわざと持ってったんでしょうが)
「返すよ。今夜どうだ」
(返すだけならポストに入れとけば良いじゃん)
「今夜は予定があります」
「男かぁ? 雨だってのに精が出るなぁ」
「はぁ?」
「誰だ?」
「言う必要を認めませんね」
「チェッ」
 誠と話す時、会話のレベルが4、5ランク落ちるのを麻衣子はいつも感じていた。同じ大学に現役で合格しストレートに卒業し、しかも教員採用試験をパスした男とはとても思えない。これが試験エリートというものなのか。この男が教壇に立ち施す教育というものは一体何なのだろう。彼女が教わった男性教師たちの中にこんな人間がいたかもしれないと思うと、麻衣子は恐ろしくさえあった。
 電話の向こうで鐘が鳴っている。誠は慌てだした。弾かれたように、
「職員会議があるから後でまたかける」
と言った。麻衣子は即座に、
「結構です。退社しますので」
と答えた。誠は咄嗟に言葉を失い、麻衣子が先に電話を切った。夜になって誠からまた家に電話がかかって来ることを思うと憂鬱であった。
 麻衣子は5時を少し回ったところで退社し、待ち合わせたゲートで優介を拾い東京へ向かった。雨は依然降ってはいたが、これと言って断りの言い訳もみつからなかったため、少々億劫ではあったが顔には出さず飲みに行くことにした。
「麻衣子は男を部屋に連れ込まなくなったのか」
「そんなこと無いわ。連れ込んだのとは違うけど現に昨日だって誠が来てたじゃない」
「セックスしたのか」
「してない。送って来ただけだもの」
「セックスするために連れ込むことをしなくなっただろ」
「・・・そうかも」
「何故だ」
「何故って・・・だって誠と住むのをやめてまだ3ヶ月しか経ってないのよ。優介ったらどうしてそんなこと言うの?」
「いいや別に。ただ以前とは違うなと思っただけさ」
「あ、わかった」
「何?」
「ホテル代がもったいないからでしょ」
「んなわけないじゃん。んじゃ俺の部屋に来る?」
「イヤよ」
「なんで」
「優介の部屋、散らかってるんだもん」
「大学時代は来たじゃないか」
「大人になったらイヤになったの」
「掃除したら来るか?」
「できるの?」
「それを言われると弱い」
 月決めの駐車場に車を入れ、部屋には戻らずそのまま電車で渋谷へ出た。雨はまだ降っている。2人の折畳傘は盛んに雨水を滴らせた。
 渋谷駅では南口へ出た。道玄坂上の小さな洋風居酒屋が優介の行き付けの店だ。店の右側に奥まで伸びるカウンターがある。カウンターの中にいた女性と軽く言葉を交わし、優介は麻衣子の傘を受け取って傘立てに刺した。左奥のテーブルに着こうとする優介を遮って麻衣子はカウンターへ向かった。
「相変わらずカウンターが好きだな」
「テーブルで向き合うの嫌いなの」
 優介は奥から3番目の丸椅子に先に腰掛けた。続いて4番目に麻衣子が座った。回転する椅子のせいで麻衣子の膝が優介の太腿にぶつかったが、優介は彼女の脚の感触を愉しむかのようによけもせずそのままにしておいた。麻衣子も離そうとしなかった。
「どうして向き合うのはいけないんだ」
 カウンターの中にいる女性にバーボンの水割りを2つと注文してから、優介は麻衣子の顔を見て言った。麻衣子もまた彼の顔を真っ直ぐに見、
「だって話が遠いんですもの」
 と言った。
「誰とでもこうやってカウンターに座るのか」
「そうよ。カウンターの無い店は別だけど」
「嫌いな奴とでも?」
「そんな人とはこういう所には来ないわ」
「それは嬉しいね」
 カウンターの上にコースターも無く直に置かれたグラスを優介は手にした。乾杯をしようとして手を少しだけ麻衣子の方へ差し出すと、彼女はそれを無視して軽く顔の前で差し上げて見せ、そして口にした。
「麻衣子の嫌いな物、まだ覚えてるよ」
「なあに?」
「万歳、宗教、スポーツニュース、乾杯にそれから」
「それから?」
「童貞」
「やあねぇ」
「良く覚えてるだろ? 部屋にゴミ箱を置くのも嫌いだったなぁ。壁にピンでスーパーの袋を止めてそれをゴミ入れにしていた」
「今でもそうよ」
「俺も影響されてるよ。確かにゴミ箱って奴はそれ自体ゴミに近い物になりつつあるからな」
「掃除しなきゃ同じよ」
「きついこと言うなよ」
「ばーか」
 優介は麻衣子が好きだ。一言で言ってしまうとそういうことなのだが、この「好き」がまた複雑で恋愛や憧れを通り越した高尚なところに存在すると彼は1人で決め付けている。結婚したいとも思わない。一緒に住みたいとも思わない。今夜抱けなければそれはそれで構わない。自分で何とか処理しよう。こうして酒を飲み、肴をつまみ、会話し、時々麻衣子の手や体に触れる。そんな自分たちの冷めた関係が優介にとっては魅力なのだ。
 他人からはどんな間柄に見えるだろう。恋人同士にはまず見えない。何しろくどいくらいの甘さが2人には無いのだ。お互いに、恋人同士のあのしだれ柳のような芯の無い甘さを意識的に排除している。独占欲の強い男なら、自分の女が麻衣子のようにドライであることに不満を抱くかもしれないが、優介はそんな麻衣子だからこそ好きなのだ。独占したいなどと思ったことは無い。それでは会社の同僚なのか。いいやそうではない。2人は仕事の話をしない。話の都合上どうしても登場させなければならない時は知識の一端として話す。一体今時の社会人が仕事の話をせずにどんな会話が成り立つのかと思うほど2人は話題が豊富だ。大学などの最終学歴が同じだというのは話のレベルから伺える。さて、この2人の関係は一体何なのだろう。嘗て肉体関係があった。それだけの関係であった。これからもそうでしか有り得ない。それを友達というのだろうか。恋人では決してない。精神的に2人の間に距離があり過ぎる。麻衣子にしてみれば優介は男友達の中の1人に過ぎない。彼を愛しているとは思っていない。これは彼女にとっては不幸なのかもしれないが、下成誠という男をして麻衣子は盲目になれない女にされてしまった。そして麻衣子自身それに気が付いている。益々不幸なことである。
「何か食べるか」
 優介が麻衣子に尋ねた。付き出しの惣菜だけで水割りを2杯空けた後であった。
「そうねぇ」
 目の前に立て掛けてあるメニューを手にし、彼女は満腹にはならずとも食べ甲斐のあるような物を探した。
「アスパラのベーコン巻と小鯵のあんかけ、それとブラッディメリー」
「そんなんで良いのか? 昼飯しか食ってないんだろ?」
「良いの。夜はあんまり食べない主義なの。それにねぇ・・・」
「それに?」
 麻衣子は優介の耳に顔を近付け少し甘い声で、
「満腹だと燃えないの」
 と囁いた。
 ああそうだったと優介は思い出した。空腹に近い状態の方が感覚がシャープなるのだということを随分昔に麻衣子と2人で発見したのだ。満腹だと動きが遅くなるし反応も鈍くなる。思わずニヤリとする優介の顔を麻衣子は軽く睨み付けた。優介もモツ煮込みと冷奴だけにして水割りを追加した。
「麻衣子」
「なあに?」
「早く抱きたい」
「口に出すのはヤボよ」
 声には出さず、うんうんと大きく頷く優介の脇腹を麻衣子は人差し指で突っついた。
 麻衣子はセックスに貪欲なわけではない。別に無ければ無くても構わない。だがもし麻衣子を誘う男の中に、思わせぶりな態度を取るだけで彼女を抱きたくない、或いは抱こうとしない、手を出せない男がいたとしたら、そういうトロい男はごめんだと麻衣子は思っている。それは紳士でも何でもない。かと言ってどんな男の誘いにでも応えるわけではない。彼女を落とすのは至難の業である。彼女自身駆け引きをしないので、彼女を扱いにくい女だと思っている男は多い。

 ホテルのバスルームでシャワーを浴びる麻衣子を待ちながら、派手なベッドカバーの掛けられたダブルベッドに裸で腰掛け、優介はテレビを観ていた。100円で20分しか映らないそのテレビでは、白人の男と女が激しく絡み合っている。カメラが下半身へパーンすると画面には霧が濃くかかり何の意味も無い映像となる。チェッと舌打ちし優介はテレビのスイッチを切った。そしてコンセントも抜いた。
 バスルームはガラス張りで麻衣子がシャワーを浴びる様子がよく見えた。たった今麻衣子が湯の無いバスタブの中にしゃがんだので見えなくなった。もっとガラスの傍まで行けば見えるのだが、そんな無粋なことは彼はしない。ベッドから立ち上がりバスルームのドアを開け、中に入った。
「もう出るわ」
 立ち上がる麻衣子を抱きしめようとすると、麻衣子は彼の腕をすり抜けた。
「髪を濡らしたくないの。ごめんなさい」
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