いつもスウィング気分で
Trouble
 雨は2週間ジトジトと続いた。9月に入ってから日曜日は晴れたことがない。梅雨の雨に似た感じだ。湿度が高く鬱陶しい。そんな日曜日の朝、雨の嫌いな秋子はベッドカバーを頭から被って、今起きよう今すぐ起きようともがいていた。俺はどういうわけか目覚めすっきりでソファに腰掛けル・ボランを読んでいた。彼女の電話がキリキリと鳴り、目覚まし時計のように彼女が止めるのを待っている。かなりしつこく呼ぶ。誰だろう。
「んーもう、雨の朝に電話してくるなんて無神経!」
 そうぼやきながらも受話器を手にした時には晴れた日の彼女になっていた。
「はい、森田です」
 相手が話し始めると、彼女は素っ頓狂な声を上げた。今どこにいらっしゃるんですかとか、みんな心配してますとか言っている。若杉か? 覗き込んで「若杉」と口だけ動かすと彼女は視線で頷いた。
「そんな・・・冗談はやめて下さい。私は独りじゃないんです、ご存知でしょう。私がそこへ行きます。待っていて下さい。あ、切れちゃった」
 悲痛な面持ちで彼女は俺を見、電話を置いた。起き上がり片手で前髪を掻き上げる。電話の脇に置いた赤いバンダナで髪を束ねた。彼女の始動の合図だ。
「どうした。何か面倒な事を言って来たか」
 ベッドに腰掛け、彼女は「考える人」となった。
「若杉はどこに居るわけ?」
「代々木上原駅」
「何てこった」
「今から私の部屋に行くって言うの」
「奴は君の前の部屋を知っているのか」
「名簿で調べたんじゃないかしら」
「どうする?」
「どうしようもないわ。協力を要請するしか・・・今何時ですか」
「9時5分」
 ベッドサイドのタイマーを見て答えた。
「今から行くのか」
「いいえ、もう間に合わない。電話します」
 嘗ての同居人の電話番号を押している。
「あ、私・・・そう、ちょっとお願いがあって電話したの・・・違うわよ。あのね、私を訪ねて男性が1人そっちへ向かってるの・・・会社の人よ・・・違うったら。それでね、うまくあしらって欲しいの・・・そうなの、知らないの・・・あ、チャイムが鳴ってるんじゃない? もう着いたのかしら。じゃ、お願いね。済んだら電話頂戴」
 例によって用件だけの短い電話を終えると彼女はチェストの上に電話を置いた。
「来ちゃったみたい」
「うまくやってくれそうかい?」
「多分ね。あの人嘘を吐くのが上手いのよ。顔の表情が無いからなかなかバレないの」
 それはそれは良くご存知で、流石に一緒に暮らしただけのことはありますな・・・俺自身が自分の嫉妬を牽制するように言葉が浮かんで消えた。
「どちらかが連絡くれるのを待ちましょう」
 彼女は落ち着いている、と思う。彼女の表情から動揺は読み取れない。表情の薄い顔をしているわけではない。寧ろ豊かで、一見つんとした東洋的な顔立ちを華やかに見せている。だが今は、子どものいたずらに手を焼いて困っているというような顔で俺を見て笑った。心の中は波立っているのだろうか。若杉のことだ、何をしでかすかわからないんだぞ。何か対策をした方が良いんじゃないか。気が気じゃないのは俺の方で、彼女は何食わぬ顔で服を着た。黒いスリムのジーパンに麻のセーター。タートルネックでノースリーブという、暑いんだか寒いんだかわからないデザインだ。透かし編みのそのセーターはノーブラの胸を恥ずかし気なく映し出している。
「朝ご飯食べよっか」
 セーターを頭から被ったために少しずれたバンダナを外し、今度はヘアバンドのように結んで両手で髪をふわっと持ち上げた。ほど良く乱れた髪がきたならしくもうるさくもないのは、ワイルドなムードが彼女に合っているからだ。
「コーヒーゼリー食べる?」
「あるの?」
「無い。でもすぐに出来るわ」
「どうやって?」
「見てて」
 いつものようにコーヒーを沸かした。コーヒーが出来上がる迄に彼女はホットケーキを焼いた。俺はこないだ彼女に教えてもらったジャーマンポテトを作った。刻んだジャガイモを水にさらすのを省略したので少しドロドロしている。彼女はボウルに氷と水を入れ、コーヒーサーバーを浸し、掻き混ぜながらコーヒーを冷ました。暫くするとコーヒーがドロドロになって来た。
「あれ?」
と俺がさけぶと彼女は笑った。
「ゼラチンパウダーを入れておいたの」
「へーおもしれえ」
 大学時代にアルバイトしたスナックで覚えたのだと言った。
 カクテルグラスにボトボトとコーヒーゼリーを盛り付け、グラニュ糖と炭酸を混ぜて作ったシロップをかけた。
「生クリームが無かったんだわ」
「ミルクで良いよ」
「そう? ごめんなさい」
 それらをトレイに載せて運んでいると、今度は俺の電話がロロロと鳴った。
「誰だろう」
 スピーカーの上の電話に手を伸ばすと同時にもう片方の手でステレオのスイッチを入れた。テープが回り出す。ロン・カーターがウッドベースを弾いている。
「はい、黒瀬です」
「俺だよ」
 若杉だ。
「お前・・・今どこに居る?」
「何故だ」
「何故ってことはないだろ。会社には来ない、家には居ないで訊かない方がおかしいだろうが」
「家に電話したのか」
「当たり前だ」
「じゃあもう知ってるわけだ」
 1週間以上無断欠勤したくせに悪びれる様子も無く、寧ろ俺が何かドジでも踏んだのでたしなめているような、ふてぶてしい態度だ。
「何も知らなくても変に思うよ」
「俺はクビか」
「そんなことはボスに訊け。兎に角今どこに居るんだ」
「代々木上原だ」
「代々木上原?」
 驚いて見せた。得意げな奴の話し方が気にかかる。何か企んでいる。
「森田秋子はもう男と一緒に住んじゃいないぜ」
「どういうことだ」
 彼女はコーヒーゼリーを手にソファに腰掛け、俺を見ている。俺の芝居が上手いか下手かを審査しているのだ。
「行ってみたのさ」
「何でそんなことをしたんだ」
「会いたかったからさ。俺だって彼女が好きなんだ、勝手だろ」
 馬鹿な事を言ってやがる。そんな勝手を通す資格がお前にあると思っているのか。盗人猛々しいとはこのことだ。
「今はそんな下らんことを話してる場合じゃない。自分の責務を果たすことが先だ。お前、自分で何をしでかしたかわかってるんだろうな」
「おい、森田秋子はどこに居るんだ。お前、チーフだから知ってるんじゃないのか」
 しつこい野郎だ。彼女の事から話題を外そうとしない。
「森田さんから引っ越したという話は聞いていない」
「ほんとかよ」
「嘘を吐いてどうする」
「ある日突然出て行ったんだとよ」
「俺には関係無い」
「さっき電話したんだ」
「どこへ」
「森田秋子の所」
「良くやるよ」
「電話番号が変わってないってことは同じ区内だろ」
「知るか」
「お前も渋谷区だよな」
「そうだ、それがどうした」
「俺はお前が森田さんを連れ込んだと睨んでいる」
「呆れた奴だ。俺は彼女が引っ越したことさえ知らないんだぜ」
「ちぇっ話の解らねぇ野郎だな」
 どっちがだ。
「兎に角月曜には出社しろ」
「ああ」
「ボスに会え」
「わかったよ」
「他人に迷惑をかけるな」
 うるさそうに舌打ちをして若杉は電話を切った。
「君が代々木上原に住んでいないことがわかっちまったぜ」
「そう・・・彼はうまくやってくれたのかしら」
「ここに居るんじゃないかと言いやがった」
「そう・・・彼は何を言ったのかしら」
 俺が肩をすくめたと同時に彼女の電話が鳴り出した。俺はステレオのスイッチを切った。ソファからベッドへ移動しながら彼女は電話を取った。
「はい・・・あ・・・若杉さん」
 明らかに不愉快さを帯びた彼女の声は若杉には届かないらしく、ベッドに腰かけて脚を組む彼女は俺に向かってあっかんべーをした。
「そうですか・・・そうですよ・・・ええ、話してません・・・もちろん独りです・・・あの、何か御用ですか・・・困ります・・・どうぞ、私は構いません・・・切ります・・・冗談はよして下さい。失礼します」
 さも汚らしそうに電話を置くと彼女は軽く身震いをした。
「何だって?」
「私が新しい住所を明かさないのは訳があるんだろうって」
「へぇ、それで?」
「ボスにバラすって」
「成り下がったな」
「あんなイイ男と別れるなんてよっぽどだろうとも言ってた」
「どういうつもりだ」
「抱きたいのよ、私を」
「え?」
「声がドロドロしてて下心が見え見え。あんなに無防備に欲望をさらけ出す人も珍しいわ」
「相手してやれば?」
「最初はそんな気もあった。もうちょっとマシな人だと思ってたから」
「仕事はよく引き受けてやってたじゃないか」
「私の利益ですもの」
 ロン・カーターはいつの間にかハービー・ハンコックに替わっていた。アコースティックなピアノの音がどんよりした空によく似合う。今日は雨だ。改めてそれに気付いた俺たちは窓越しに空を見上げ、同時に溜息を付いた。
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