いつもスウィング気分で
Dating
 今朝は危うく遅刻しそうだった。夕べはタイマーのスイッチも目覚まし時計も何もセットせずにバタンキューだったのだ。8時に不思議と目が覚めたのはラッキーだった。急いで身支度をした。車で行こうかどうか迷ったがやめにした。ここから青山まで3、4㎞しかない。順調に流れれば10分もかからないが、朝の道は信用できない。裏道が工事中だと厄介だし、こんなに焦っていては自分の腕も定かではない。仕方なく朝から暑い中駅まで走った。汗だくだ。今日はついてない。いいや今日もだ。昨日は昨日で森田秋子との間に邪魔が入った。うむ、今日こそ2人で飲むぞ。
 8時55分、ギリギリ間に合って俺はドスンと椅子に腰を下ろした。森田秋子は居ない。あ、居た。洗った雑巾をパラパラとほぐしながらドアから入って来たところだ。彼女は今週掃除当番なのだ。とすると来週は俺か。掃除は、清掃業者に委託している部分もあるが、6人の机を拭く、床を掃く、端末にハタキをかける、ゴミ箱のゴミを捨てる、などをしなければならない。チーム内の6人に男女の区別なく課せられている。毎日しなければならないわけではない。とにかく汚れていなければ良いわけだ。それは、人それぞれ感覚の違いで、いくら掃除しても気が済まない奴もいれば、ふっと吹いて埃が立たなければ綺麗だと言う奴もいる。俺だって、月火は前の人が掃除したのがまだ効いてるからそれほど汚れていないと思い込み、水曜日にまとめてする。木金は次の当番がやってくれるから、それまで大して汚れはしまいと思い込む。結局水曜日だけだ。別に苦情は来ない。誰だって掃除なんかしたくないのさ。
 掃除機じゃないと掃除した気がしないと言う奴もいる。
 森田秋子に言わせれば、掃除した気がしないというのは、綺麗になったという結果が掃除をしたという事実から導き出されているということを無視しているのだそうだ。確かにその通り。パンだと食べた気がしないとか、ベッドだと寝た気がしないというのと同じだ。
 森田秋子の掃除ははっきり言って文句のつけようが無い。申し訳ないくらいちゃんとやってくれる。ゴミ箱はゴミを捨てるだけでなく、洗ってくれる。だから他のチームのゴミ箱は底に黒い物がこびり付いていたり、ガムが固まってくっついて、その上に紙屑がへばり付いていたりしているのだが、うちのチームのは新品のように綺麗だ。端末もキーとキーの間の垢まで洗剤を使って取る。30分はゆうにかけ、終わるころには汗をかいている。今も額に汗を浮かべ席に戻って来た。机のレールに雑巾をかける。ムスクがフワリと匂った。
「毎日そんなに徹底的にやらなくても良いよ」
「まさか。毎日はしてません。月金だけです。あとは掃いて拭くぐらいで。毎日やってたら疲れちゃいます」
「このチーム、まともに掃除してくれる奴が居ないんだよな。俺もついつい甘えちゃってさ。悪いと思ってるんだ」
「他人んちの掃除なんて誰だって進んでやろうとは思いませんよ」
 そう言っていたずらっぽくニヤリとした。その時、スピーカーから音楽が流れ出した。9時になったのだ。何ともセンスの悪いインストゥルメンタル。これはボスの趣味だ。俺なら朝と仕事に相応しい曲を選んで流すのに。花の金曜日にはチックコリアの"What game shall we play today?"なんてどうだ。
「こういう音楽は区役所の食堂にでも流しておけば良いのにな」
「カラオケよりましでしょう」
 と彼女は答えた。俺は吹き出してしまった。若杉のことを思ってだが、さて彼女は何を意味してそう言ったのやら。
 俺は、ところでと話題を変え、昨夜あの後田中に送ってもらって無事に帰れたのかとふざけて真面目に尋ねた。
「もう1軒行こうと誘われました。でも断りました」
と答えた。田中の奴うまいことやりやがって。帰る方向が同じというのはラッキーだ。羨ましいことだ。
「昨日は黒瀬さんと飲むはずだったんですよね」
 と嬉しいことに彼女は俺が誘うきっかけを作ってくれた。俺はすかさず飛び付いた。
「じゃあさ、行こうよ、今日は2人で」
 何のためらいも無く彼女はうなづいた。
「今日は私お金持って来ましたよ」
 と彼女は笑って言った。彼女になら割り勘にすると言っても後に残らないだろう。とは言え女に払わせるつもりは無い。
 昼休み、食事から戻ると彼女は制服のスカートと同じグレーの毛糸で編み物をし始めた。10、20と数えながら作り目をしている。
「何を編むの?」
「カーディガンです」
 メモにカーディガンと書いてあったのを思い出した。
「自分の?」
「もちろん。ここ時々すごく冷房がきついでしょ。半袖のブラウスだと寒いんですもの」
 隣りのチームとの間に150㎝ほどの高さのファイリングキャビネットが置かれ、空気の流れを阻んでいる。天井のダクトから出る冷風はそれで跳ね返り、うちのチームはやたら寒い。その分隣りは心地良い思いをしているわけだ。冷房を弱くすると部屋全体が蒸すので設定温度は変えられない。寒いと思ったら上に何か着てもらうしかない。冬は逆にうちのチームが暑い。だから暖房を弱くし、隣りの連中に何か着てもらう。キャビネットをどかせば良いのだが仕事の性質や能率の上でもここに置くのが一番良いのだ。
 作り目を終えた彼女は、今度はかなりのスピードでせっせと編み進んでいる。
「今どこ編んでるの?」
「後ろ身頃です」
「1着編むのにどれくらいかかる?」
「毛糸ですか、時間ですか」
「両方」
「そうですねぇ、私は小さいからこの太さの毛糸で8個ですね。うちでも併行して編んでますから1週間はかからないと思います」
「速いじゃん。今度俺のセーター編んでよ」
「毛糸を買って来てくださればいくらでも編んで差し上げます」
「俺だと何個かかるかな」
「大きい方だと12、3個ってとこですね」
「毛糸って1個いくら?」
「ピンキリです。ウールでも200円以下のもあれば、外国製だと1000円以上のだってあります」
「へえー。毛糸買って来てって言われてもわかんないな」
「お金下さればお望みの色、私が買いましょう。蒲田にすごく毛糸の安いお店があるんです」
 そう言うと彼女は手元に目を戻した。驚いたことに彼女は今まで俺の方を向いていたのだ。凄いなあ、見なくても編めるんだ、と思って見ていると、1段編み終わったところらしく、今度は左から右に編み進んでいる。あれ? 変だな、さっきまでは右から左に進んでいたのに。どういうしくみだ?
 じゃ、それが終わったら是非俺のを頼むよ、と言った時、端末の向こうから若杉とセクションツーの田中が顔を出した。
「黒瀬はずるいよな。森田さんを独り占めにしてさ。俺たちとも話させろよ。な、田中、そう思わないか」
「そうですよ。あんまり独占すると変な噂が立ちますよ」
 と、2人して俺を責める。彼女は時計を見、編み物を片付けながら笑っていた。
「別に独占なんかしてないさ。話したかったら話せば良い」
 彼女は端末に向かいスイッチを入れた。自分のIDを打ち込みログオンする。彼女のIDは「AU909XX」だ。Aはアプリケーションの略、Uはセクションワンを意味するフランス語の1、UNのUだ。セクションツーはAD、スリーはATとなる。何故英語の数字にしないかというと、英語だと、2と3が同じアルファベットになるからだ。3桁の数字は社員の通し番号、最後の2桁は自分で勝手に決めて良い。XXはどういう意味か尋ねると、好きな車と好きなブランドですと答えた。ああなるほど、ダブルエックスとイクシーズかと言うと、笑って、ミーハーでしょと言った。
 若杉と田中もそれぞれ端末に向かっている。時々端末の間から顔を出し、向かい合って座っていることになる彼女に話しかける。彼女は決していやがらず受け応えしている。田中が自分のチームに戻らないことについても何も言わない。俺は3人に背を向けて机上作業をしている。俺もチーフとして田中を黙認した。
「森田さんのIDナンバー格好良いよな。俺のなんか123だぜ」
と田中が言う。
「あら、キーインしやすくて良いじゃない」
「ちぇ、だからつまらないのさ」
 しばらくキーボードを叩くカタカタという音とプリンターの音だけになった。
「私、この数字好きだわ」
「だろ、格好つくもんな」
「ビートルズの曲にこの数字がついたのがある」
「あ、知ってる」
 若杉は黙っている。こういう話題になるともう若杉は入って行けない。田中は音楽の趣味が一緒だねと言いながら自分のライブラリーを披露していた。田中が松山千春や中島みゆきを持ち出すのに対して、彼女はスタッフやクルセイダーズを出すのはどちらかというと俺と趣味が同じだ。ケニードリューまで出て来たが、そこまで行くと流石に田中も知らないと言った。ザマーミロ。
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