いつもスウィング気分で
Start loving
 それから俺たちは週に一度は必ず飲みに行った。時にはチームの連中と、時にはボスや他のチームの連中を交えて、そして時には2人で。2人で飲む時にはパロルに行った。2人の時、帰りは必ず彼女の部屋まで送る。それ以外の時は田中がその役だ。部屋に灯りが付いていたこともあったし、真っ暗なこともあった。部屋に誰も居ないと彼女は俺を誘った。だが俺は断り続けた。シャクに触る。何だか割り切れない。だが彼女から離れられない。俺が彼女を送り届ける部屋は彼女の部屋ではなく、別の男の部屋でもあるのだ。彼女が俺をその気にさせようとしているのはわかるし、大いに誘いに乗りたいのだが・・・上手く説明できないが、要するに俺はとことん嫉妬しているのだ。このままずっと2人の距離が縮まらない絶望感さえ感じ始めていた。
 マンションの前庭は駐車場になっている。10台分だ。結構ましな車ばかりだ。派手なアメ車やイタ車こそ無いがちょっと見にはターボかノンターボかわからない日本の中堅車とか、目の肥えた奴にしか区別のつかないような足回りの四輪駆動車とか、乗り手の想像がつかない車ばかりだ。彼女の彼氏の車はどれだろう。彼女が好きだと言ったダブルエックスはあったが、あれは左ハンドルの逆輸入車だ。まさかあれではあるまい。もしそうだとすると、車に関しては完全に俺の負けだ。俺の車は純粋な国産車だし、5ナンバーだし、彼女の好きなクーペではない。そのうち聞き出すことにしようと思った矢先、車種が判明するチャンスがあった。余りに遅くまで飲んで、とうとう終電が無くなってしまった夜のことだ。彼女は自分の部屋に電話ボックスから電話をした。
「今、パレフランスのところ・・・そう、いつもの店の・・・うん、良い?・・・ありがとう。待ってるね、じゃ」
 1分もかからない要点だけの電話だったが、俺はその短い会話に2人の付き合いの深さと長さを感じた。彼女のデスクに電話がかかって来たことがあった。あの時もそうだった。短い会話だった。あれ、とか、それ、とか代名詞だけで十分に意思の疎通がなされるような確かな繋がりを俺は今まざまざと見せ付けられてしまった。彼女が俺に対して好意を持って接しているというのは、自惚れかもしれない。今の彼氏と別れたいのではないかとか、彼女を俺の物にできるのではないかとか、自分の都合の良いように考えている。みっともないな。夜遅く迄飲んでいる彼女を何も言わずに迎えに来る男に、俺はどう映るのだろう。恋敵として恨まれるのか、それとも、また良いオモチャをみつけたらしいと蔑まれるのか。そして彼女自身は何故、どういうつもりで俺と付き合っているのだろう。俺はかなり彼女に傾倒してしまっている。
「4、5分一緒に居ていただけませんか。1人じゃ怖いから」
 受話器を置いて振り向いた彼女の顔は恋人を待つ女の顔になっていた。一瞬、馬鹿らしい!と唾を吐いて立ち去りたい気持ちになったが、どんな奴がどんな車に乗って来るか見たいと思ったり、俺と一緒に居る彼女に奴がどんな態度をとるか見たかったりで返答にまごついた。しかしまさか夜中に放っておくわけにはいかない。
「良いのかな」
「何が?」
「こんなに遅く迄俺と飲んでて彼氏は何も言わないのかな」
「言わないと思います。ただの同居人なので」
「別れないの?」
 うつむいて何も言わない。バッグを右手で無造作に掴み、左手は腰に置いている。髪がサラサラと肩を流れ、車が通る度にふわっと浮いた。
「黒瀬さん・・・」
 突然彼女はドキッとするような訴えの視線を俺に向けた。見上げる彼女の顔に思わず俺の顔を近付けてしまいたい衝動に駆られた。あと10秒あったなら、俺の手は彼女の肩に伸びただろう。しかし惜しいことに彼女は視線を俺の背後に外してしまった。
「あ、来た」
 振り向くと50m程先にヘッドライトが三度閃いた。
「ではまた明日会社で。黒瀬さんと居ると楽しいわ」
 そう言って俺の肩をポンポンと叩くと俺の脇をスルリと抜けるように車に向かって走って行った。彼女が車に辿り着くとタイミング良くドアが開き、彼女は乗り込んだ。俺に向かってかヘッドライトを二度点滅させ、車はタイヤを鳴らしてUターンした。余裕のある態度で去った男の車は、先頃日本とドイツのメーカーがデザイン提携して人間を使わないアダルトなCMでセンセーショナルに売り出した車だ。右ハンドルではあるが俺の負けだ。価格も装備も走りも、ドイツとの混血にはかなわない。奴の車と俺の車が計らずも腹違いの兄弟であるというのも憤然とする。
 惨めな気持ちでタクシーを拾った。何台か乗車拒否に遭い、ようやく捕まえたタクシーだったが運転手が無愛想だ。行く先を告げても聞こえたのか聞こえないのか返事もしない。遠回りでもしてみろ、馬鹿にすんなよ、俺は道には詳しいぞ。
 森田秋子と付き合い始めて俺は何かとついてない。彼女に振り回されてペースを崩されたようだ。いけないいけない、もうすぐ30、しっかりしろ。

 ある日の昼休み、彼女は編み物の手を休めずに、俺は「ル・ボラン」から目を離さずに暫く沈黙のままで居たが、彼女がコーヒーをお持ちしましょうかと言ったのを機に話し始めた。俺のカップを覚えた彼女はブラックのまま持って来て机に置いた。俺の話はどうしても彼女と彼氏のことに向いてしまう。ジメジメとしつこく同じことを繰り返して言うのがいい加減イヤになっていたし、そろそろ彼女にストレートでも打ってみようと思い、
「俺の部屋に来ないか」
 と言ってみた。彼女は眉を少し動かしただけで顔はそれほど驚いた風でもなかったのだが、ためらいがちに、
「良い・・・ですよ」
と答えた。
 今迄こんなに時間をかけてくどいた女は居ただろうか。例え男が居たって俺はためらったりしなかった。彼女は難しい。
 今夜俺は彼女を抱くだろうか。彼女のあのためらいは何なのか。そんなことはどうであれ、俺は俺のペースでやる。今夜俺は彼女を抱く。それを承知で彼女は来る。そうでないとしたら森田秋子もその辺のぶりっ子あばずれと同じだ。もう二度と俺は彼女を誘わない。
 今日も彼女はあっと言う間に着替え、颯爽とロッカールームから出て来た。髪を右手で掻き上げ左手に茶のクラッチバッグを抱えてヒールの高いサンダルをカツカツ言わせて歩く。そんな彼女を見るとついこれから1杯どう?と声をかけたくなる。若杉も田中も他の男たちもそうだと思う。毎日必ず誰かに誘われている。女子社員の中にはそれを不愉快に思う者が多い。帰りかける彼女の後ろ姿に歪んだ表情を向けたりする。そんな顔すればする程男は遠ざかるってのに。
 今日の彼女の服装は、ダンガリーのノースリーブワンピース。上から下まで白い小さな前ボタンであれは外すのに手間がかかりそうだな。そして、白いサッシュベルトでキュッとウエストを締め付けている。前髪を掻き上げた右手をそのままポケットに突っ込んだ。ドアの傍に立って俺の帰り支度を待っている。白い壁に寄り掛かり窓の向こうに目をやっている。時折、お先にと声をかけてドアを出て行く人に笑顔を向ける。イイ女だなぁ。
 黄色く澱んだ8月の暑気の中に押し出され、俺たちは訳も無く急いで地下鉄に乗った。少しも涼しくない風が地下鉄の坑内に流れている。立秋を過ぎ、暑中見舞いに代わって残暑見舞いという言葉が使われる。海にはクラゲが出てもう泳げない。7月より夏らしいはずの8月だが何とも色気の無い季節だ。
「夏休み、いつ取る予定?」
 東横線の渋谷駅に向かって歩きながら、俺は尋ねた。7、8、9月の3ヶ月のうちに連続した5日間を夏休みとすることができる。有給休暇を足して10日間取る者も居る。彼女はまだ申請していない。
「9月の末に1週間取ろうと思ってます。黒瀬さんは?」
「俺? 俺はいつにしようかな。まだ全然考えてない。今年は取らずに過ごすかもしれない」
 本当は今年中に無くなると言われていた富士スピードウェイに大学時代の仲間と行こうと計画したのだが、宿の予約が間に合わず中止になった。そうこうしているうちに無くなる話が無くなった。
「どっか行くの?」
 切符の自動販売機で切符を買い、彼女に渡した。彼女はコインパースから金を取り出そうとしたが、俺はそれを遮った。彼女はありがとうございますと言った。
「夏休みどっか行くの?」
 俺はもう一度訊いた。
「軽井沢のペンションに行こうかって・・・」
 と答えた。
「彼氏と?」
 そう返した後、俺はしまったと思った。俺の話題運びはいつも彼女と彼氏の事を詮索して終わる。了見の狭さを暴露しているようなものだ。注意してはいるのだが、案の定今も2人の間に白けた空気が流れた。彼女はふっと鼻で笑って俺を見た。
「ごめん」
 別に謝ることでもないのだろうが、そうしなければ俺の気が済まなかった。
 彼女の肩を抱いて電車に乗った。この暑いのにとでも言いた気な胡散臭そうな顔をしたおじさんやおばさんがやたらとふてぶてし く俺たちを見た。俺は無視した。彼女も知らん顔だ。彼女の肩に俺の掌の汗が付いた。手を離すと彼女は笑って、
「涼しい」
 と言った。俺も笑い返した。
「晩飯どうしようか」
「あんまりお腹空いてない」
「喫茶店で軽く済ませようか」
「良いですね」
 駅前の喫茶店で軽く食べることにした。彼女はアイスティーとグラタン、俺はアイスコーヒーとピザを注文した。2人は何も考えていないような顔で食べた。これから俺の部屋で2人がどうなるかなどまるで考えていないような顔をして・・・。
 やにわに彼女が口を開いた。
「今夜ずっと居て良いですか」
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