いつもスウィング気分で
Morning
「何時かしら」
 ベッドサイドテーブルにリビングのステレオセットのオン・オフができるデジタルタイマーが置いてある。輝度を高くしてあるので、暗さに慣れた目にひどく眩しい。手をかざして見ると10:29と見えた。
「10時半だよ」
 そう、とため息混じりに答えると、くるりと体を回して俺の方を向いた。長い髪をバサリと後ろに持って行き、片手で髪を掻き上げた。
「それ、癖だね」
「何?」
「髪を掻き上げるの」
 また、そう、と今度は尻上がりに言い、もう一度その仕草をした。その手の薬指にはどうやら奇妙な因縁を持つらしい指輪が光っている。
「その指輪にまつわる話を聞きたいな」
 そう言う俺に、彼女はおどけたような顔を見せたが、俺は、冗談ではなく本気で言っているのだとばかりに表情を崩さずに、
「そろそろ外す時期じゃないかと思う」
 と続けた。
「何故?」
「君がその指に指輪をしているのは、男の気を惹くためとか、逆に予防線を張っているとかであるなら低俗だ」
「どちらも外れ」
「どんなラブストーリーが展開したのか聞きたい」
「聞きたい?」
「聞きたい」
 大学に入ってすぐ、(仮にAとしておきましょうかと彼女は言った)Aが森田秋子にモーションをかけて来た。その頃は彼女はまだ生で、セックスに対する興味もあれば恐怖もあるといったところ。男のおの字も知らなかった。女子寮に住んでいたこともあってAの誘いに乗らずにいた。教室で隣り合って座ることが楽しみであった頃を過ぎ、Aの部屋への招待を受け、キスぐらいまでは…どうせここまで来たなら…と後は順当にお決まりのコースを進み、夏のある日Aの部屋で…男の味を知ったと同時にAの傲慢さが鼻につく。釣った魚に餌はやらないの典型だな。良くある話。俺もそうだった。今もそうかもしれない。
「自分でもこんなに男好きとは気付かなかった」
 適当に関係を持ちながら適当に距離を保ち2年間続いた。その間彼女はAのステディである顔をしながら他の男とも遊んでいたわけだ。そろそろ別れたいと思っていた矢先、彼女の態度の異変にようやく気付いたAが、餌のつもりか指輪を贈った。左手の薬指に合うサイズだ。
「いつの間に指輪のサイズを調べたのかしらね。これ、プラチナなの。3万くらいしたらしいわ。学生の3万て言ったら大金よね」
 だがその指輪を受け取ると彼女は冷たく別れを告げ、踵を反してAの前から去った。
 彼女は指輪を抜き取り、掌の上で転がした。それまで1本の輪に見えていたが、手の上で2つの繋がった輪になった。メビウスの輪を2つ繋いだような形をしている。不思議な四次元的デザインが彼女に合っていると思った。この指輪を選んだAはセンスが良い。
「今の彼は私を愛してるかどうかわからない。指輪に対して嫉妬しているかどうかもわからない。意地を張って指輪を気にしない振りをしているようにも思える」
 彼女は今度はうつぶせになった。枕の上に指輪を置いた。俺はあおむけのまま指輪に手を伸ばした。手に取って1つに合わせ、左手の小指にはめようとした。入らない。枕の上に置かれた彼女の手を見た。改めて見ると何て華奢な手をしているのだろう。彼女は俺の小指の先に引っ掛かった指輪を取ると、自分の小指の先を差し込んで振り回した。慣性の法則で指輪は枕に落ち、そのままヘッドボードと枕の間に転がった。拾おうとすると、
「そのままにしておいて」
「え?」
「このまま忘れたい」
 お? 彼女から指輪を離すことに成功したか?
 彼女は、今の生活をやめてしまいたいと言った。何故?と目で問うと、彼女の目がいたずらっぽく光り手が俺の胸に伸びて来た。俺は彼女の腕を引っ張って、彼女を俺の体の上に載せた。
「それはね…あなたに出会ったからよ」
 彼女の言葉も髪の毛も俺の胸にくすぐったい。
「好きになったんだわ」
 小声でそう囁いて彼女は起き上がった。
「どうやって代々木上原から出る?」
「フェアに話し合う」
 ソファまで歩いてバッグから赤いバンダナを取り出した。細長く折り畳むと無造作に髪を束ねた。プログラミングに夢中になると、彼女は自分の机の引き出しから後ろ手にバンダナを取り出し、今みたいに無造作に髪を結ぶ。若杉がそれを見て色っぽいと言った。俺もそう思う。適度に乱れている今は特に。裸のままでも恥ずかしがりもせず、彼女は俺に向かって歩いて来る。
「お腹空いた」
 そう言って俺の腕を引っ張る。起き上がり、壁に掛けたバスローブを羽織った。
「ずるいわ、自分ばっかり」
 そう言いながらも彼女は服を着ようとはしなかった。脱いだままだった服を畳んでソファの上に置き、裸でいる。
 終夜営業のレストランへ行こうと言うと、彼女は、外に出たくないから何か作ると言った。キッチンの冷蔵庫の扉を開け、寒い寒いと言いながら暫く眺めていた。ソファに腰掛け、何も無いよと言うと、これだけあれば十分よと答え、キッチンの壁に掛けた黄色いエプロンを裸に直に着けた。偶然にも彼女が好きだと言っていたイクシーズだ。ごそごそとフライパンやら調味料を探し、彼女は料理を始めた。俺はコーヒーを担当した。30分程するとトレイに3皿載せて彼女がキッチンから出て来た。
 今迄あのキッチンに立った女は何人も居たが、裸にエプロンは初めてだ。彼女は思い切りが良い。男に慣れている。俺の負けだな。
 皿には、ツナのオムレツとジャーマンポテト、それにサラダが出来上がっていた。もう一度キッチンに戻って今度はドレッシングとフォークを持って来た。
「奥さんみたいな真似させて申し訳ないね」
 と言うと、
「今日は特別」
 と言いながら、エプロンをはずし服を着た。沢山あるボタンの上の2個と下の4個は外したままカーペットに座った。
 今までの彼女の生活が見える。俺が今まで付き合った女たちに無言で強いて来た事を、彼女も強いられていたんだな。男は気付かない。食事の支度、掃除、洗濯、風呂の用意など、当然女がやるべきだと思っていた時代があった。自分が男であることに浸っていた。男と女は平等だ。男のすべきこと、女のすべきことという区別は無い。彼女と俺がここで一緒に暮らし始めたとしても、2人の帰る場所が同じというだけだ。男のために女が家事をしなければならないという概念を、俺は彼女に押し付けない。
「明日から徐々に別れる準備を始めるわ。今夜帰らなければ、彼、不審に思うわね」
「怒る?」
「怒るかも。私、無断で外泊したことないの。テイシュクな妻でしょ?」
 そう言って肩をすくめた。
「まさか殴られたりしないよね」
「それは無いわ。そんな愚かな人ではない」
 男が女に勝るのは体格と体力だけだ。その2つの目に見える確かな物が男の意志を強固な物に見せかけて来た。昨今は危ういが、比較的上背のある俺はまだ見せかけに助けられている。まだ男としての価値にプラスの部分があると思う。少なくとも彼女より高い所に手が届くし、きつく閉まった瓶の蓋も開けられる。
 俺は弱い者いじめは嫌いだ。女に手を上げたことは無い。それは無能な男のすることだ。馬鹿な男程早急に勝ちを得ようとし、暴力で屈服させようとする。暴力的に制した後、女を抱く男は女の目にどう映るのだろう。腹上であえぐ男のみっともなさと言ったら。これがさっきまで縷々として拳を振り上げていた男かと呆れているに違いない。
「今日は特別よ」
 と再び言って彼女は皿を洗った。手際良く後片付けをする彼女をキッチンの入り口に立って眺めた。彼女は結婚して家庭におさまっていられる類の女ではないのだ。それはある意味では不幸であるかもしれないが、俺と暮らしている限り彼女は彼女らしくいられるのだから、今よりは幸せになるだろう。
「あなたは私の上司なのね」
 突然くるりと振り向いて彼女は言った。
「オフィスラブだわ」
 そう言って笑った。
 この瞬間彼女と俺は確実に結び付いた。 
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