恋、花びらに舞う
「覚えてるよ。由梨絵、だろう?」
「そうです……」
いきなり呼び捨てにされて戸惑っているのか、酔いのせいか、由梨絵のうつむいた顔が薄紅色に染まる。
強気な顔と恥じらう顔が交互にあらわれる由梨絵を、さらに好ましく思った。
「後藤由梨絵……パーティーのとき、自己紹介してくれたじゃないか」
ちゃんと覚えているよというように、和真はテーブルの下で由梨絵の足を軽く小突いた。
「ところで、俺の名前、知ってる?」
「和真……」
「久しぶりに名前を呼ばれたな」
嬉しそうな顔をした由梨絵の足が、和真の腿にふれた。
その足を和真の足が素早くからめとり、つま先で由梨絵のパンプスを脱がせる。
大胆なことを仕掛けても、顔色一つ変えない由梨絵を和真はますます気に入った。
「このあと、二人で抜けないか」
由梨絵の耳元にささやいた。
「ふっ……」
「なんだよ」
「マナミが今夜は早く帰らなきゃいけないってこと、あなた、知ってたんでしょう。私を誘うつもりだった?」
友人の結婚式に出席するため、深夜発の夜行バスに乗らなくてはいけない、今夜は長居できないとパーティーでマナミが話しているのを和真は聞いていた。
女の気をひくために、和真は由梨絵ではなくマナミに声をかけたのだ。
「それがどうした」
「否定しないのね。正直な人……」
「それで、返事は?」
和真は由梨絵の背中に手を回し、ひじをつかんで引き寄せた。
彼女が驚いたのは一瞬だけ、由梨絵は和真の腿に手をおくと微笑んで見せた。
「いいわ、いきましょう」
仲間内の席からふたりが抜け出したのを、みな気がつきながら知らぬふりでいた。
和真の行きつけの店のカウンターに並んで、グラスを合わせながら互いの話をした。
由梨絵が短大の講師であると聞いても和真はさほど驚かず、和真が語る昔の事故の話を由梨絵は静かに聞いた。
そこで一時間ほどを過ごし、終電を逃した由梨絵のためにタクシーを呼んだものの、和真はわがままを口にした。
「まだ帰したくない。もう一軒付き合えよ」
「これ以上遅くなったら、タクシー、いなくなっちゃう」
繁華街とはいえ地方の街の夜は早い。
人通りも少なく車もまばらで、空車のタクシーはほとんど走っていない。
「飲み明かして、始発で帰ればいいじゃないか」
「無理言わないで……私にもう一度会いたいと思ったら、ここに電話をちょうだい」
渡された名刺を見て、和真は酔いがさめる思いがした。
「ここって、大学の代表電話じゃないか。勤務先に電話しろっていうのか」
「そうよ。本当に会いたいと思ったら電話くらいするでしょう。その勇気がなければ、これでさよならよ」
和真はしばらく名刺を見ていたが、ふっ、と笑いながら自分の名刺を出した。
「女にリードされたのは初めてだ……俺のも渡しておく。会いたくなったら電話してくれ」
「……わかった」
妖艶な顔に唇を押し当てたい……
衝動を抑えきれず由梨絵の肩に手をまわしたときだった、目の前にタクシーが滑り込んできた。
「おやすみなさい」
由梨絵を乗せたタクシーが夜の闇に吸い込まれていく。
街路樹の桜の花びらが和真の手のひらに舞い降りて、指のあいだから落ちていった。