恋、花びらに舞う
梅雨に入り、ジメジメとした日が続いた週末、由梨絵は学長室に呼ばれた。
学生が提出したレポートもすべて読み終わり、急ぐ仕事もない、これから帰ってゆっくりしたいと思っていたときの呼び出しである。
「はぁ……」
「あぁ、わかります、そのためいき。由梨絵先生にお願いごとですよ、きっと。うちの学長、人使い荒いですから」
「おそらく、来年度のことでしょう。学長も学生の確保に必死なのよ」
由梨絵の勤める短大は、来年度から系列校の4年大学との合併が決まっている。
再編して新たな大学として出発するため、その準備に事務局は追われており講師陣も例外ではない。
学長室に入る前に 「後藤先生にお客様です」 と由梨絵に伝えた学長秘書が、いつになく弾んだ様子であった。
その理由は、ドアを開けてすぐにわかった。
学長と歓談していた男が立ち上がり由梨絵の方へ向いた。
「後藤先生、お久しぶりです」
「おひさしぶりです。朝比奈監督、ご活躍ですね。テレビでレースを拝見しました」
学長室にいたのは和真だった。
会いたいと願った顔がそこにある、興奮する心のうちをさらけ出さないよう、由梨絵は努めて表情を抑えた。
「朝比奈さんのレーシングチームのメンタルサポートを、後藤先生にお願いしたいそうです。
後藤先生は企業カウンセラーの経験もある。チームのために尽くしてくださるでしょう。
うちの大学のためにも、ぜひ引き受けていただきたい」
由梨絵が心理カウンセラーとして、日本を代表するレースチームに名を連ねることになれば、大学の名前も出てよい宣伝になる……
というのが学長の思惑だった。
経営者一族出身の学長が考えそうなことだ。
「我々のチームに、ぜひ力を貸してください」
詰めた話をさせていただきたい、これから時間を割いていただけますかと低姿勢の和真へ、由梨絵は大きくうなずいて見せた。
助手席に由梨絵が乗り和真がハンドルを握る車は、短大の敷地を滑るように出ていった。
車の向かう先を由梨絵は知らない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「心理カウンセラーの私に会いに来たの? メンタルサポートのスタッフなら、ほかにもいるでしょう。私でなくても」
「いや……チームのメンタルサポートというのは口実だ。後藤由梨絵に会いに来た」
信号待ちで止まり、前を向いたまま真顔の和真の言葉に、由梨絵の心が震えた。
「後藤先生って……ふっ、さっきは緊張しちゃった」
「そっちこそ、朝比奈監督って言ったじゃないか」
「まさか、和真って呼ぶわけにもいかないでしょう」
「いいよ……」
「学長の前で、呼べるわけないでしょう」
それもそうか、と返して、和真はアクセルを踏み込んだ。
レース車がモデルのスポーツカーは、並んだどの車より早く前に飛び出した。
「レース、見てくれたんだ」
片方の和真の手が由梨絵の膝に伸びてきた。
その手に由梨絵の手が重なる。
「深夜枠の中継を観て寝不足になっちゃった」
「どうして?」
「えっ?」
「録画でもいいだろう。リアルで観なくても」
「あなたの顔をみたかったの……いつまでたっても電話してくれないから……」
ハンドルを急に切った和真は車を路肩に停めた。
「どうしたの、びっくりするじゃない」
「俺の電話を待っててくれたんだ」
「えぇ……自分でも呆れるくらいにね」
シートベルトをはずした和真は由梨絵の唇を覆った。
由梨絵は小さく抵抗してみせたが、それもほんの一瞬、みずから和真の背に手をまわした。
ふたたび車が動き出したのは、息が乱れるほどの長いキスのあとだった。
「みんなになんて呼ばれてる?」
「由梨絵先生、かな」
「友達も?」
「友達は、由梨絵とか、由梨、とか」
「じゃぁ、おれは由にする。ゆう……」
「なあに?」
「ふっ、なんでもない」
和真の目が満足したように笑っていた。
「おなかすいちゃった。食事にいかない?」
「俺はゆうが食べたい」
「バカッ」
あはは……と和真の笑い声が車の中に響く。
途中から降り出した雨の中、ふたりを乗せた車は水しぶきをあげながら郊外へと走っていった。