千尋の話


 それでこの日も守屋先輩は営業部に顔を出して「おい、今日は直帰すんなよ、俺の誕生日なんだかんな!」と俺を威した。それで俺は営業先からわざわざ会社へ戻ってまあいいチャンスだからと溜まった書類を片付けている途中、守屋先輩に「今日はもう切り上げろよ」と一方的にデスクの上を片付けさせられて、そしてよく行く居酒屋の何本か千切れている縄暖簾(なわのれん)をくぐった。

 守屋先輩は醤油豆を箸先に器用に摘んだ。それをパクリと口に放り込む。それからいつもみたいに俺の愚痴を聞いてくれて、俺のやる気を聞いてくれて、目を細めて嬉しそうにビールを煽った。

 俺は思うんだけど、ことにアルコールを摂取すると人の体温が上がるせいだろうか、その人の匂いというのがする。俺がそのことに気づいたのはやはり守屋先輩と一緒のときだった。それは一年目の冬のことで、ビジネススーツに合わせてボーナスで買った新しいコートの素材がなぜだか肌に合わなかったらしく首がかぶれて痒いという話をしていたときのことだ。いつものマフラーをして首もとを守ればいいんじゃないかとか、ストレスがとか、そんな話をしていて、ふと何かが香った。守屋先輩が俺のワイシャツの衿を指先で少し引っ張って、それから身体をぐいっと傾けて俺の椅子の背にかけたコートの手触りを確認したときだった。なにか背の高い木を思わせるような香りだった。刺激的なのに優しく、たとえば花が綻(ほころ)ぶ一瞬のような、そういう種類の見逃してしまいたくない瞬間を香りにしたような、いい香りのコロンだなと思った。

 守屋先輩はごつごつした皿の上のジャコ天の一切れに山葵をちょこんと乗せてそれを醤油の小皿に運んだ。小皿から溢れるほどのジャコ天にちょんちょんと醤油をつけて一口に口に入れた。もぐもぐと守屋先輩の口が動いている。それからぴたりと止まって、またもぐもぐもぐと動く。それからまたピタリと止まって、守屋先輩は
 「なんだよ」
 と、言った。
 俺は少し考えて
 「何が?」
 と答えた。
 守屋先輩は、またもぐもぐもぐとジャコ天を噛んだ。守屋先輩の唇が濡れているのは、ジャコ天の油だろうか醤油だろうか。そのときまたあの香りがした。背の高い木を思わせる匂い。それは針葉樹のような木がするのに、俺はなんとなく花が咲く瞬間を思う。守屋先輩は喉を鳴らしてビールを飲んだ。もちろん俺も負けずにごくごくビールを飲んだ。

 自慢じゃないが、酒に強い方ではない。
 思い出したが、「お前のその、"自慢じゃない"の使い方、間違えてると思うんだよ」と守屋先輩に言われたことがある。自慢じゃないが、教科の中でも国語は一番苦労した。それでも俺は無事にいい大学に入れたし、いい企業に就職できた。いい先輩に恵まれたし、いい酒が飲めて嬉しい。それは自慢できることだ。

 「おい、チーちゃん、ほら」
 と、先輩がビール瓶を突き出したから俺はまたグラスを差し出した。そういえば、
 「先輩、最近俺のこと、チーちゃんって、呼ばないんすね」
 「あ?いや、呼んでるだろ?いまだって」
 「まぁ、呼んでますけど、なんつうか、前みたいに、こー…いちいち枕詞にしなくなったっつぅか。」
 「枕詞って、そういう意味じゃないと思うけど、まぁ、そうな、いちいち呼ばないようにはしてる」
 「先輩は、国語得意なんすね。」
 「普通だよ、お前が変な使い方するだけだろ。お前、時々、こんなんでよく受かったなって思うことあるよ」
 「何が、会社ですか?大学?」
 「どっちもだよ。」
 守屋先輩は、ビール瓶を置いて頬杖をついた。お品書きを見上げている。その目は三白眼になっていてそういやこの人の瞳は普段から三白眼に近い感じだなとそのことに初めて気がついて俺は気をよくした。俺の視線に気づいたのか、守屋先輩がお品書きから俺に目を移した。「目が合った」と思う一瞬があって、守屋先輩はまたお品書きの方を見上げた。
 「俺がチーちゃんって呼ぶと、みんながお前をチーちゃんって呼ぶだろ?」
 何の話だ、と思うタイミングで守屋先輩が言う。
 「そうかな。そういえばそんなこともあったかな。」
 「課が違うのに、タカハシとかだってお前のことチーちゃんとか呼んでたじゃん。」
 「あぁー…そうですね、そういえば何度かそんなことがあったけど、今はそんなことないですよ。」
 「俺が呼ぶなって言ったから。」
 「そうなんですか?」
 「そう。」
 守屋先輩と目が合った。背の高い針葉樹の香りがする。いい匂いだな、花が、咲く。
 「なんで、」
 「そろそろ帰るか。」
 一瞬考えたことが、重なった言葉にかき消された。自慢じゃないが、俺はだいぶ酔っ払っていた。


 昼間の暑さが嘘みたいな夜風だった。アルコールを飲んだ頬に当たるとすーっと気持ちよい。まっすぐに歩けない。まるで夜に浮かんでいるみたいだ。「チーちゃん、ほら、肩」と守屋先輩が言う声がカプセルの向こう側にいるみたいに聞こえる。
 「カプセル」
 と、俺は言った。
 「何?」
 「声が。」
 「はいはい。」
 守屋先輩は俺をあしらったみたいだった。そいつは良くない。俺は先輩に申してやろうとして、そういや、誕生日だったんだったと唐突に思い出した。
 「先輩、お誕生日、」
  俺の左わき腹がものすごい勢いで引っ張られた。守屋先輩が俺の肩をぐいっと持ち上げたからだった。
 「痛い。」
 と俺は文句を言った。
 先輩は夜の中に一歩を踏み出して、俺は引きずられるようにして先輩の歩幅を追った。



 ビルが並ぶ歩道を、高速道路の下を、歩いた。俺はふらふらと、でも、先輩の足取りは頼もしかった。

 いい匂いがしている。ずっと。



 何か考えていることがあるのに、それが何なのか分からない。形にならない、言葉にならない、でも確かに何かがあって、それは何だろう、何だったっけ?と考えるのに、考えて考えて「あれ?もしかして…」と思う瞬間かき消されてしまう。目の前に突如として背の高い針葉樹があらわれて目隠しをされてしまうのだ。

 「いい匂いが、する。」
 守屋先輩は何も答えない。
 「チーちゃん、って呼ばないでよ。」
 そんなこと思っていないのに、俺はつまらない言いがかりをつける。守屋先輩は歩くのをやめた。

 「チーちゃんって、呼ぶな。」
 俺はもう一度言った。
 「分かったよ。」
 と守屋先輩は言った。それは困る、と俺はぐるぐるする頭で考える。
 「なんだよ。分かったってなんだよ。」
 「だから、チーちゃんって、もう、呼ばないよ。」
 「ダメだよ、呼べよ。」
 「なんだよ、どっちだよ。」
 守屋先輩は笑って、俺を抱えなおしてまた歩き出した。その声は少しほっとしたように聞こえたから俺はちょっと気を良くした。


 いい匂いがする。
 俺は立ち止まった。
 夜風が気持ちよい。
 半歩、行きかけて俺を振り向いた守屋先輩が少し心配そうに眉を顰めて俺を伺っている。
 俺は本当は気づいている。

 酔っ払ってるからだと思われたくなくても、酔っ払ってるからだという言い訳を振りかざして、俺は腕を伸ばした。守屋先輩の肩に頬を乗せると先輩の肩は汗ばんでしっとりしていた。やっぱり、そうだ。ずっと確かめたかった。気づかないふりをしてきた自分の──。

 「やっぱり。──先輩、いい匂いがする。」
 頬の下で守屋先輩の肩の骨が動いた。俺の背中に回った守屋先輩の手が、彼が少し戸惑っていることを伝える。俺は先輩の肩ごしに彼を見上げた。どんな顔をしているんだろう、そこからは彼の表情は伺えなかった。
 俺が一歩後ろに下がると、守屋先輩は俺がよろけたと思ったのか腕に力を入れた。俺は脚を踏ん張って、守屋先輩に大丈夫、と伝えた。

 「千尋って、ね、深さの単位なんだよ。」
 俺が言うと、守屋先輩は少し笑った。あぁ、この顔だ、と俺は大学四年生だった先輩を思い出した。
 「なんだよ、急に、って顔してる。」
 「なんだよ、急に、って思ってるからだろ。」

 落ちてみてよ、と言い掛けてやめる。この谷の深さを、この海の深さを、俺自身も分からないのに。

 「チーちゃん」
 守屋先輩が俺を呼ぶ。
 「チーちゃんって呼ぶの、もうやめるよ」
 守屋先輩がそう言っても俺はもう慌てなかった。こんな都会のビルの谷間に月の明かりが届く。守屋先輩の影が細く、長くアスファルトに伸びている。背の高い針葉樹みたいだ。
 「チヒロ、って、呼ぼうかな」
 刺激的でそれでいて優しい、そんな匂いがする。夜の谷間に吸い込まれてしまいそうになりながら俺は「ん」と短く答えた。
 「千尋」
 と、守屋先輩が俺を初めてそう呼んだ。


                          終わり
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