にゃん子と寺子屋日記
ふと気づくということ(24)
8月8日
ふと気づくということは、どういうことだろうかと。
今まで、何ともなかったのに、ふとしたことで気づき、それ以後、もう元には戻れないというか、その場を去ることしか、方法がないような・・。

今日ぼんやり、もう、もらって何年にもなるステンドグラスの小さな花の絵をみていたら、いきなり、その花が、目が輝いて、角まであるように見えてきて、少しぎょっとした。
錯覚だろうと思ったが、そう見えると、もう今までのようには見れなくて、外して、紙に包んで
違うところに置いた。

かわりに花模様の刺繍のカーテンをかけた。
何でもほしがる人がいるので、その人にあげようかと思ったが、自分が気づいたようないわくつきのものをあげるのも気が引けるので、多分最終的には捨てることになると思う。

このごろ、自分のバージョンがかわってきているのかナーと思うことがある。
その1、畑に執着がなくなって、売ろうかと思っている。
その2、亡くなった母の時計がいきなりオルゴールが不規則に鳴り出して、電池を入れ替えてみたが、振り子は舞うのだけど、針が動かなくなってしまった。自動で時刻を合わせる時計ということだった。
その3、かれこれ、スーパーのパート時代から25年もつき合って来た友が、社長の旦那さんの引退のため、違う県の娘さんのところに、この8月、引っ越すことになった。
その4、ステンドグラスの絵が、急に違うものに見えてきた。
これをつくった女性は、能面を彫る趣味があり、感情の波は穏やかではないし、私は面は苦手で、彫るとか、とてもとても・・自分にとっては拷問に思える。
そういえば、般若の面を彫るときは、自分も鬼にならないと彫れないだろうに、よく彫れるなあと思ったことがある。
まあ、人間は、誰でも自分の鬼と共存しているようなものだけど、自分の鬼に気づいている人は、その時点で救われやすい人だと思うが、自分の鬼に気づけない人は、やはり遠く、救いがたい人なのかもしれない。

なんだか、もう絶対畑は売った方がいいと強く思ってしまった。
今まで、何度が売ろうとしたが、その度に木々や植物、他の土の生きものたちが、忍びなくて、
駐車場にもせず、20年近く持ちこたえてきたが、現状維持なら手放せると思って、誰か物好きな人が買ってくれるかもと。
つまり、夏みかんの実が成ったまま、柿の実がついたまま、にがうりが成ったままで手放すということ。
自分は、畑(先祖)にお詫びを言って、お酒をあげて、お別れを言うつもり。
あとは、買った人が切り倒すなり、コンクリートで埋めるなり、してくださいというもの。

ふと、思うということは、いろいろなことにリンクしているとあらためて気づいた。
結末は、畑を売るということにたどりついたんだから・・・(苦笑)。

一つ、いいことがあった。
それは、ふとしたことが縁で、音信が途切れてしまった中学時代の友と復活したこと。
絵手紙やはがきのやりとりをしている。
かれこれ、60年も離れて、なお、心が通じるというのも、しみじみ、しあわせなことだと。
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