したたかな恋人
第5話 俺がいるから
仕事を終えると、私と杉浦君は別々に会社を出て、この前行ったお店で合流した。

「ビールでいいですか?」

「ええ。ありがとう。」

お疲れ様の乾杯をすると、私はふぅーと息を吐いた。

「お疲れですね。」

「そうね。今日は、疲れたわ。」

まさか、明日実ちゃんにあそこまで言われるとは、思っていなかった。

「私ね。明日実ちゃんの事、まだまだ新人だって、見くびっていたみたい。」

「彼女、まだ2年目ですよね。まだまだ新人ですよ。」

「ううん。考え方的にはもう一人前よ。それをどう生かしていくか。それが、問題なんだわ。」

明日実ちゃんを、これからどう成長させていくか。

それも私の課題なのね。

「杉浦君の新人時代は、どうだったの?」

「そうですね。2年くらいはひたすら先輩の手伝いでしたよ。初めて企画に携わったのは、3年目くらいでした。」

「どうして、その会社を辞めたの?」

「もっと面白い仕事を、見つけたからです。」

「ええ?聞きたい。その話。」

でも杉浦君は、ちらっとこっちを見ただけで、話そうとはしなかった。

「えっ……聞いたらまずい話?」

「いえ。今やってる仕事なんで。」

「あっ、そうか。CMの仕事ね。」

「はい。」

やっと微笑んでくれた杉浦君に、ビールが進む。

「それにしても、新人の育成は難しいわ。」

「八木さんのような人は、特に難しいですよ。」

「どういう事?」

「さっき岡さんが、考え方は一人前だって言ったじゃないですか。ということは、八木さんはこの仕事の才能を持っているって事。そんな彼女を育てるには、良く知っている人ではないと難しいと思います。」

「私は、明日実ちゃんの事、知らなすぎ?」

「いいえ。岡さんは、彼女を十分知ってますよ。八木さんを育てられるのは、岡さんだけです。」

それを聞いた私は、少しだけ安心した。

「元気でました?」

杉浦君のその余裕の表情に、ドキッとする。

私には、将成さんって言う恋人がいるのに。

「思い切って、彼女に考える余地を与えては?」

「そうねぇ。彼女に一部分を任せるって言うのも、一つの手かもね。」

話しているうちに、少し心が軽くなった。

不思議。杉浦君と一緒にいると、元気が出てくる。

「ありがとう。元気が出たわ。」

「それならよかった。」

杉浦君のビールを飲む姿が色っぽくて、ずっと見ていたい気持ちにもなった。

「仕事の話はここまでして、思いっきり飲みましょう。」

「そうですね。」

それからは関を切ったように、趣味の話や最近あった事を、杉浦君と話した。

それが楽しくて楽しくて、いつの間にか私は、また一緒に飲みましょうと、次回の約束までしてしまった。

いい同僚に出会った。そんな気持ちを抱いて。

「じゃあ、行きましょうか。」

「そうね。」

外に出ると、もう暗くなっていた。

「結構な時間、飲んでいたわね。」

「ええ。岡さんがこんなにお酒強いとは、思ってもいなかったです。」

「私、そんなに飲んだかしら。」

「自分で分かってないんですか?」

私達は顔を見合わせて、笑った。


そんな時だった。

将成さんから電話が架かってきた。

杉浦君に”ごめんね。”と言い、少し離れた場所から電話に出た。

『今、どこにいる?』

「お店の前だけど……」

『一人でか?』

胸がざわついた。

『一人じゃないな。』

「そうだけど……」

どこからか、将成さんが私達を見ているような気がした。

『誰といる?』

「誰って……」

私は杉浦君を見た。

『……杉浦か。』

即答できない私は、何か後ろめたい事でもあるんだろうか。

「そうよ。」

『また杉浦か。』

電話の奥から聞こえるため息に、私の気持ちも暗くなった。

『なんだ。二人付き合っているのか?』

「違う!!」

杉浦君の前で、大きな声を出してしまった。

「ただ……飲みに来ただけよ。信じて。」

『俺だって、信じたいよ。』

まるで私に溺れているようなセリフだ。

私は不倫相手なのに。

『他の男と寝るなよ。』

「当たり前じゃない。」

それで電話は切れた。

「ごめんなさい。大きな声を出して。」

「いや、俺の方こそごめん。彼氏のいる人と二人きりで飲みに行くなんて、注意力が足りなかった。」

二人で下を向いて、しばらく黙っていた。

「岡さん。前から、思っていた事なんだけど。」

静寂を打ち破ったのは、杉浦君の方だった。

「なに?」

そう返事をしたら、杉浦君に抱き締められた。

「不倫なんて、止めてしまえよ。」

「杉浦君……」

「俺がいる。奥さんがいるのに、岡さんとも付き合っているなんて。そんな男やめて、俺のところにこいよ。」

思わずキュンとしてしまった。

心のどこかで、不倫なんてやっぱり実らない恋なんだって、思っていた私を、引き寄せる強い言葉だった。

「でも……私……」

それでも将成さんの事が好きだなんて、馬鹿な私。

このまま杉浦君の元に行けば、人並みの幸せが待っているかもしれないのに。

私をそっと放した杉浦君は、私の額におでこをくっつけて、目を閉じた。

「俺だったら、岡さんを幸せにしてあげられるよ。」

「うん……」

「寂しい時には、いつでも側にいられる。」

「そうね……」

「君をいつも抱きしめて、放さないよ。」

「杉浦君……」

なぜだろう。私はその時、杉浦君を抱きしめてしまった。

抱きしめ合った二人が、唇を交わすのは、自然の事で。

私達は顔を近づけて、お互いの唇を重ね合った。

柔らかくて、温かいキス。

それは杉浦君の性格を表しているようだった。

「今日は、これで帰るわ。」

「ああ。送って行くよ。」

杉浦君は私から離れると、タクシーを呼びに行った。

その手に引かれるように、タクシーがスーッと停まる。

「ありがとう。私一人で帰れるわ。」

「そんな、寂しい事言わないでくれ。キスまでした仲じゃないか。」

私は杉浦君の胸を、軽く叩いた。

「だからよ。私には、彼氏がいるわ。ここで送って貰う訳には、いかないの。」

「そんな……」

杉浦君の切ない声に後ろ髪惹かれないよう、私は急いでタクシーに乗った。

「出して下さい。」

そしてタクシーは、私と杉浦君を引き離すかのように、動き出した。
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