俺の手には負えない

 プライベートなことを心配してくれる人……。友利は本当にそういう人だろうか。

 こちらから電話をかけても、仕事で忙しいらしい友利は全く出ようとはしない。

 それどころか、先日家に行ってもとんぼ帰りをくらったくらいだ。

 九条に乗せられてあんないい方をしてしまったせいで…これで彼氏じゃないなんて事になったら、罰が悪い。

 でも……、友利は私の事を大好きと言ったんだから、彼氏だ。

 彼氏が連絡がつかない時、家に行ってみて、何が悪い。

 ストーカーじゃない、と自らに言い聞かせ、仕事帰りにマンションまで来た。

 駐車場には、ボルボは停まっていない。

 ということは、本当に外出しているようだ。

 仕方なく空いた駐車場に自分の車を停車させ、とりあえず、ポストなどを遠くから見てみる。

「……」

 が、郵便物がはみ出しているわけでもない。本当に何日も帰ってきていないのかなんて、見ても仕方ないし、これこそ本当にストーカーみたいだ。

「……」

 玄関に着いて、嫌な予感がする。

 その、ドアノブには、『清掃済み』の札がかけられている。

「……」

 清掃済み?

 ハウスキーピングでも雇ったか?

 意味が分からない。

 しかしその札の後ろにかけられている透明のビニール袋に、『新しく入居された方へ』というパンフレットが入っている。

 思い切ってドアノブを捻った。

「あいた……」

 嘘……そんなことって……。

 そこに見えたのは、何もないただの白い空間。

 あの日、あった傘も靴も全て見えない。

 その向こうのリビングにかけられたカーテンも、全てがまるで飲み込まれたかのように、何もなくなっていた。
 

♦ 
 そんなはずはなかった。

 だけど、もしもそんなはずがあるのなら。

 前回、私が友利の存在に気が付いたことがバレたのかもしれない。

 それで……。

 スマホの着信履歴を確認する。

「……」

 確かに、あの日から連絡が途絶えている。

 いつの間に引っ越しなんか……。

 まだ、こちらが引っ越しした話もしていないのに。

 そんな、バカな。そんな馬鹿な、そんな、バカな!!!

 香月は、とりあえず車に乗り込んで発進した。

「……」

 今の状況を確かにできる人……その人物のことだけを頭に浮かべ、とにかく、カフェへ乗り出した。




 郁人がバイトするカフェに到着したものの、既に19時近くになっている。17時が閉店なので、誰もいないかと思いきや、仕込み中なのかまだ灯りがついていたので、構わず裏口のドアを叩いた。

「すみません!」

 普通なら出て来てくれるはずだ。

「はーい」

 そういう風によく呼ばれるのか、あの女性店長らしき声が聞こえて、しばらくして開けてくれた。

 やっぱりそうだ。

「すみません、あの、私、……」

 えっと、公安の人というのは多分違う。

「その、ここで働いている若い男の人、郁人さんといったと思うんですが」

「はい」

 女性はきょとん、として、こちらを見た。

「その人と知り合いで、その……」

 今更になって自分の名刺を取り出し、

「私はこういう者ですが」

「はい」

 電機屋がどうした、と言いたげだ。

「郁人さんとどうしても連絡が取りたくて…その、私のその名前を言えば分ってくれると思うんです。それで、至急、私の携帯電話の方に連絡をしていただきたいんです」

「………はぁ……」

 女性は名刺の裏を見た。

「あ、携帯番号、書いておきます!」

 その名刺をひったくるように奪い、仕事用のボールペンで番号を書く。

「この前お会いしたんですけど、連絡先を聞き忘れて…。えっと、仕事の事で、と言えば分ると思います。すみません、私の不手際でこんな事になって…」

「いえ、じゃあ、郁人君に言って、電話かけてもらったらいいんですね?」

「はい!その、なるべく、至急で……みすません……」

「あ、じゃあ今かけましょうか。もう私も帰るとこだし」

 女性は淡々と言うと、自分の携帯電話をいとも簡単にポケットから取り出した。

 なんと、郁人はすぐに出る。

 女性と郁人の会話は短く、

「10分後にかけるって言ってます」

と、簡単に話をとりつけてくれた。

 頭を下げられるだけ下げて、とりあえず、駐車場に停めた車で待つ。

 ところがぴったり10分を過ぎてもかかってこず、10分後の連絡というのが、何分後まで有効なのか考えていたところに。

「……ええ?」

 驚いた事に、15分後に歩いて現れた郁人は、簡単に助手席に乗り込んで来た。

「何だ、急に」

 今日はスーツ……支給品のつるしではなく、エリート警察官っぽい上等なやつだ。

「えっ……」

 そっちこそ、なんですか、急に……。

「仕事の途中で抜けてきたんだ。下らない用だったら、怒るぞ」

 郁人はサイドウィンドウに肘をかけ、顎を乗せると、こちらを睨んだ。

「そっ……」

 一般人を護るのが警察の仕事でしょー!!の一言は置いといて。

「その……今日…友利さんの家に行ったら、清掃済みの札があって。引っ越しした……みたいで。どうしたのかなあって……」

「……」

 郁人は、驚くことに、ドアをガチャリと開けた。

「えっ、ちょっ! めちゃくちゃ大事な事なんですけど!!」

 言うと、とりあえず、ドアは閉めてくれる。

「知らん。引っ越しした理由なんか」

「……アメリカに…引っ越しとかしないですよね?」

「さあ、俺は何も知らない。というか、知るわけがない。一緒に働いてるわけでもあるまいし」

「………」

 そういうものなのか……。てっきり、同じ班とかそういう事かと……。

「公安と本気で付き合えると思ってるのか?」

 ぐさりと来る一言だった。既に偽名しか教えてもらっていない。

「……感触的には…付き合ってる…感じだったん…ですけど……違ったのかな……」

 郁人の強い視線を感じて、溢れる涙をこらえる。

「その場しのぎだよ。女なんて全部。深みに嵌ったら、相手を傷つける。偽名だと知った時、不信感しか生まれなかっただろ」

「………」

「忘れろ。あんなヤツの事なんか。どうせもうどっかで新しいその場凌ぎ作ってるよ。
 それから、そんな事で一々呼ぶな。分かったな」

 郁人は簡単に出て行く。

 あっという間に車内に1人取り残された香月は、溜息をつく暇もなく、ただフロントガラスから夜空を見上げて

「あーあ」

と、声を出しながら涙を流した。








 1人で帰りたい気分ではない。

 ただもう一度だけ、友利に電話をしようかとも思ったが、諦めて車を出すことにした。
 
 せめて、郁人がもっとちゃんと話を聞いてくれていたら気持ちが落ち着いたのに……。

 とりあえず、自宅の駐車場に車を停めてから、近くのカフェバーを目指して歩く。

 良さそうな店でいつか行こうと思っていたのだ。明日の仕事の事もあるが、今日は飲みたいだけ飲んでもいいだろうとわけの分からない強気でもって歩く。

 気付いた時には遅かった。背後から強引に大きな手で口を塞がれる。

「香月 愛だな。声を出すな」

 痴漢のサラリーマンではない。黒いトレンチコートが一瞬警察では、と思えたが、どうもそんな雰囲気でもない。

 なんとか両手で男の骨ばった手に触れる。

 しかし、口が堅く塞がれているだけで、手足は自由な為、ぎりぎり冷静さを保てる。

「SDカードの中身を見たな」

 でもそれは警察に…と思った瞬間、何かが背中をついた。

「ゆっくり歩け」

 更に心臓裏に強く押しあたる。

「……」

 筒状の、冷たい……。

「中に入れ」

 すぐ側に横付けされていた赤いコンパクトカーの運転席に別の男がいるのが見えた。

 男は後部座席のドアを開け、そこに乗るよう押し込んで来る。

 公安の、護衛は一体どこで何を!!!

「………」

 だが、乗り込む以外の道はない。

 車はすぐに走り出した。

 男は口から手を離したと思いきや、素早く両手首を掴み、インシュロックでギリギリ締め付けた。

「………」

 死を間近に感じ、身体が震え、呼吸が乱れる。

「西端のマンションへ迎え」

「えっ?」

 手はずが違ったのか、運転手の男が振り返ってこちらを見た。しかし、すぐに前を向く。

「……大丈夫なんですか?……」

 言いながら、運転手は左折する。

「どうせこいつは何も知りゃあしない」

 助かるのかもしれない。香月はじっと息を殺して2人の会話を聞き続けた。

「でしょうけど……。後々…」

「こいつはバックが多い。いなくなったらなったでこっちの方が都合が悪い」

「それは確かに言ってましたけど……」

「なあに……ちょっと身を顰めてればそれでいいだろ」

 男に突然ぐいと顎を持ち上げられて、慌てて拘束された両手首に力を込めた。

「……珍しいですね」

 運転手の声に、香月は仕方なく視線だけ逸らした。

「俺も混ざっていいですか?」

 事の内容がはっきり理解出来た香月は、身体を硬直させた。

「そういうのは趣味じゃねえ」



 マンション、というよりは雑居ビルの一室と言った方が近い部屋の中は、生活感はほとんどなく、寝るために帰っている、というような部屋だった。

 かろうじて、キッチンカウンターの上には、洋酒が並んでいる。

 この部屋にも押し込まれるようにして入った香月は、殺されることはないのだろうという安心感から口を閉ざし、言われるがままにベッドに腰かけたまま静かに辺りを見渡していた。

 男は薄手のコートを脱ぎ、シャツを剥ぎ、裸体をさらす。

 その傷だらけの身体と無精ひげの顔を見た途端、口封じに最終的に殺されるのではないかという恐怖が蘇ってくる。

 男は家に帰った事でリラックスしたのか、ボクサーパンツ一枚になり、洋酒の瓶をグラスに傾ける。

 しかし冷蔵庫では氷を作っているようで、グラスに氷を入れた途端、生活感を感じ、少し緊張がほぐれた。

「……」

 だがそれも束の間、男はグラスを持ったまま近寄ってくる。

 さすがに身体が固まった。

「……」

 つと肩を押され、後ろにそのまま倒れ込む。だが、後ろはベッドなので心配はせず、次の瞬間前を見ると、

「………」

 拳銃が目の前に突き付けられていた。

 息を飲む。

「交換条件だ。お前を殺さずにいてやる。その代わり、俺の言う事を聞け」

「………」

 香月は無心で首を縦に何度も降った。

「いいか……」

 目の前の拳銃がゆっくりと左のこめかみに移動した。

「交換条件だ」

 右耳に低い声が入る。

 こめかみにぴっちり冷たい銃口が当たっているのを感じながら、もう一度首を縦に振った。

「お前の心臓を握っているのは…」

 左には拳銃、右からは低い息。

「俺だ」

 耳を甘噛みされる。

「いっ……」

 思わず声が漏れた。

 銃は耳、頬、をたどり、首元へと移動する。

 それと同じように、男の唇も耳を噛み、頬を舐め、首元に吸いつく。

 訳の分からない興奮状態で息をするのがやっとだった。

 私は殺されるのか、それとも、快楽を与え生きながらえようとしているのか。

 何も分からず、何も考えられず、ただただ、その男の生命だけを感じて暗闇に包まれる。



「2時」

 ショートメールに時間だけが入る。

 それは、西端マンションの男からこの時間に来いという合図になっていた。

 いつも夜中の2時や3時。あれから、一日置きくらいに、一週間通った。

 話はなにもしない。

 ただ、身体を重ねるだけ。

 それが、いつまで続くんだろうとは思う。

 だけど今は、それでも良いと思えるほどに妙な落ち着きを感じていた。

 最初に感じた恐怖は何も感じないと言えば嘘になるが、明らかに和らいでいるし、相手もそれを見せようとはしない。

 仕事が休みの日の今日、香月は、郁人のカフェのカウンター席に、いつものように腰かけて昨日の男のことを思い出してはぼんやり身震いに浸っていると、

「いらっしゃいませ」

 若干ぶっきらぼうに、郁人が挨拶をしてきた。あの車の中での逢瀬以来だ。

「……」

 こちらは客なので、もちろん何も言わない。

 ふと、郁人とこちら側の境界線を感じた。郁人がいるのは、安全な日常。

 警察官として、悪い人を取り締まり、やつけて退治し、平和を築く世界。

 だけど私が今いるのは。

 拳銃を片手に女を好き勝手している男のいいなりで……。

 いづれ、飽きたら……殺されるのかもしれない。

 視線を上げると郁人がこちらをじっと見ていた。

 同じように見返すとすぐに近づき、

「どうなさいましたか」と口ではカフェ店員を装いながら、若干不安そうに警察官の目でこちらを見た。

「………いえ……お会計を」

 まだ、半分くらいアイスコーヒーが残っていたが、そのまま立ち上がる。

 アイスコーヒーが美味しくなかったわけはない。

「………かしこまりました」

 郁人は何か感じとったのかどうなのか、だまってそのままレジの前につくと、

「ケーキセットお1つで980円です」

と、いつも通りバイトの仕事を1つこなした。



 そういえば、友利の存在をすっかり忘れていた。

 その2週間は男のことで頭がいっぱいになっていた。 

 男はいつも何もしゃべらない。

 これが脅迫だったのかどうなのかということもお互い忘れてしまったのかと思うほど、すんなりマンションに行く私の唇を奪い、服を脱がし、ベッドに横になる。

 その後も同じ。こちらがうたた寝をしそうになると、無理矢理起こして帰らせる。

 無駄話は一切なし。

 ただそのせいか余計に、最初より、行為が優しくなってきたような気がしてならなくなっていた。

 気付けば、友利とした時に痛みがあったことも懐かしいほどの、思い出になりつつある。




 男との逢瀬が2週間半になり、一日置きというペースが決まったと感じた3週間目の水曜日。いつもだと、昨日の夕方くらいに、1時とか2時という連絡があって向かうのたが、連絡がないことを不審に思いながら、休日のお決まりとなった郁人のカフェへ向かう。

 郁人がいる確率は3分の1くらいだが、今日はいなさそうだ。

 いても、話も何もしないのだが、今の自分の現実を映されているようで、落ち着かないのは確かだ。

 席に着き、もう一度スマホを確認する。

 やっぱり連絡はない。

 履歴を確認してみれば、この2週間、1日置きにメールが届き、1日置きに会っていた事から、毎日連絡を取り合っていたことになる。

 改めて、男の存在の大きさに気付いた香月は、昨日のメールがなかったことに不安を大きく募らせていった。

 メニューを見ても食べる気にはならず、とりあえず、ソーダ―フロートにする。

 しかし、たった一日連絡がなかっただけなので、何かあったとは考えにくい。

 急に仕事が忙しくなっただけだろうし、そうなれば、今日か明日にでも……。

「ふぅー……」

 カウンター席はそれほど多くはない。

 だが、右席1つ分を開けてすんなり腰をかけた男は……。

「いらっしゃいませ。メニューがお決まりになったらお声かけください」

 バイトの女の子が愛想良く話しかけている。

「ブレンドコーヒー1つ、ホットで」

「かしこまりました」

 嘘でしょ……。

「……」

 嘘。

「おばけでも見たような顔だな」

 友利は、おどけて言った。

「ちっ……」

 声が続かない。

 おばけではない、ただ……。

 勝手に引っ越した事、何度電話をかけてもつながらなかった事。

 それらを責めたい気持ちよりも、今自分は別の男の事を考えていて……。

 すぐに顔を逸らした。

「会う男、会う男が次々飲み込まれていくようだな」

 さすがに腹が立って睨んだ。

 次いで、涙が溢れた。

 それに気づいた友利は、ハッとした表情を見せたが、すぐにこちらが顔を逸らす。

「……」

「ブレンドコーヒーお持ちしました」

 友利の右手元にコーヒーが置かれた。

「今の男には色々な容疑がかかっている」

 そんな事知っている。

「だがそれに気づいて逃げたがな」

「……」

 それで連絡が………。

 もう、色々な事が一度に起こり過ぎて、ただ涙が滴り落ちていくしかない。

 友利は淡々とコーヒーを飲んだ。

「バイト君が入れたコーヒーが飲みたかったが、今日は出勤していないようだな」

「……」

 郁人の事だろう。

「……」

 色々な事が言いたかった。だけれども全て、宙に浮いてしまうことは、自分でも分かっていて口からは何も出ない。

「………」

 しばらくして、友利がコーヒーを飲み終えた気がした。

 立ち上がって去り、もう二度と目の前には現れないのだと覚悟をした。

「………すみません、おかわりを」

 思わず友利の顔を見た。

「………」

「二杯まで無料と書いていたものだから」

「………」

 どういう言い訳だと思う。

 さすがに顔が崩れた。

 友利も、苦笑している。

「こ、……コーヒーだけで二杯も飲めます?」

 無性に笑いが込み上げてくる。

「……そういうものか。あまり甘い物は好きではないが……抹茶ケーキなら半分くらい食べられるだろう」

 半分……。残りの半分はどうする気だ……。

「すみません、抹茶ケーキも1つ」

 さすがに顔を見た。

 目が合うが逸らす。

「残りの半分はどうするんですか…」

 思ったままを聞くと、

「最初の半分を食べてくれるとありがたいんだが」

 ちょっと待って。それってどういう、それってどういう。

「……」

 もう、わけが分からなくて、笑うしかない。

「ああもうなんか、すっごい腹が立つような、悲しいような、腹が立つような、悲しいような……」

「……君にはすまない事をした」

 このタイミングで言うかそれ。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーと抹茶ケーキになります」

 店員がちゃんと友利の前に置いてくれる。

「すまない事って、何がすまないと思ってるんですか」

「………言い出すとキリがないが……」

「ですよね。抹茶ケーキ半分じゃ割に合いませんよ、しかも抹茶嫌いだし」

 言いながらも、友利の皿をこちらに寄せ、勝手にフォークで刺して美味しいところを半分食べた。

「抹茶、嫌いだったか……」

「前に、郁人さんが売れ残りだからって抹茶ケーキくれたんですよ、これと同じの」

「……バイト君?」

「郁人さん。え、名前知ってるんでしょ? そこの、バイトの……公安の……」

 友利は平然とした顔をしている。

「あ、それも偽名」

 気付いた香月は、溜息をついて、フォークを皿に戻した。

「最悪。みんな最悪」

 顔を大きくテーブルに伏せた。

 だが、すぐに起き上がって、

「みんな最悪。なんなんですか、一体」

「あまり気にしない事だ」

「気にするに決まってるじゃないですか! 大体友利さんだって明星だって言うんでしょう!? 仕事だって違うし、引っ越しだって勝手にするし、何がアメリカで仕事ですか!」

 声が大きくなってきたので、自力で押さえた。

 友利はただ、静かに聞いてくれてはいる。

「そんでしかも、今日はなんでここに来たんですか。仕事ですか、これは」

 そうに決まっている。

「そうだ」

 酷い。

 酷いよ。

「酷い」

「すまない」

 間髪入れずに返って来たが、

「すまないで、すみません。私がどんだけ色々怖い思いしたか!!!!」

 目を見て言い切ってやる。だけど、友利の表情は変わらない。

「だけどそんな事関係ないですしね」

 もう、自分でも何を言っているのか分からなかった。

 友利は、一目こちらを見てから、ケーキにフォークを入れて食べた。

「……」

 次にコーヒーも飲む。

「アイスクリームが全部溶けてる」

 言われなくても、ソーダフロートのアイスはとっくに溶けてべちゃべちゃになっている。

「なんだかもう食べる気がしません」

 椅子に背をもたせた。

「ドライブでもしないか?」

 どういうタイミングの計り方をしているんだと眉間に皴を寄せたが、

「車…同じですか?」

「そうだ、さあ、支払おう」

 友利は一口で残りの抹茶ケーキを食べ、コーヒーで流すと伝票を二枚持って立ち上がった。

「……」

 香月はすんなり、それに続いて立ち上がる。


 友利の右助手席に乗り込んだ香月は、ただ黙って前を見つめた。

「ぐるりと回って帰ろう」

 西区から北、南、東を回る道路を通るつもりだ。一時間半のドライブか。

「……いいです。運転しながらだと話しがうまくできないし」

「そんなことはない。両目を塞がれても、真っ直ぐ走れるぞ」

 随分得意気だ。どういう冗談かは知らないが、

「新しい家があるんでしょ。そこ見せて下さい」

「望むところだ」

 画して。友利の自宅は、西区だが、随分北寄りになっていた。香月の自宅からだと一時間はかかる。

 なんだかんだと言いながら、近くに住む気もない友利の有様に、香月は完全にわけの分からない怒りが込み上げた。

「何階なんです?」

「…201だ……。飲み物も何もない。そこのコンビニで買って来るから先に入っていてくれ」

「……」

 手渡された鍵を見つめて思う。

 これで今まで通りになるはずがない。

 香月は鍵を持ったまま、マンションをそのままに歩き始めた。

 携帯は持っている。番号を覚えていれば向こうからかけてくるはずだ。

 だが、それより先に友利は背後から走って追いかけて来る。

「……気が変わったか?」

 慎重に聞いてきているのが分かる。

「外で何か食べましょう。やっぱり」

 お腹はいっぱいだったが、部屋に入りたくない。単純にそう思った。

 すぐそこに適当なイタリアンが見える。

 香月はなんでもいいやとそのドアを開いた。

 後ろから友利もついて来る。

「いらっしゃいませ」

 小ぢんまりした店はテーブル席が5つとカウンターだけ。だがそのカウンターに。

「うそぉ」

 申し合わせたように郁人の顔が見えて大声を上げてしまった。

「…」

 郁人はちらとこちらを見ただけで、他人のふりを決め込む。

「嘘? 待ち合わせしてたんですか?」

 後ろの友利に聞くと、

「俺はそんなつもりはなかったんだが」

と、言いながら、ボックス席へ入る。

 香月は多分そのまま知らんふりして出て行ってしまうであろう郁人の隣に勝手に腰かけた。

「プライベートですか、今日は」

 小首を傾げて聞いてやる。

「ただの食事だ。何か用か」

 予想通り、ふいと顔を背けて郁人はパスタを食べ進める。

 時刻は5時過ぎでしかもパスタとは…昼を食べ損ねたのだろうか。

「美味しいんですか、それ」

「…………」

 食べていて返事をしない。

「じゃあ、私もそれにしよっと」

「……あっちはそうじゃなさそうだぞ」

 友利はとりあえずボックス席に腰かけている。

「多分きっと、郁人さんが本名を教えなかったら今日はデートだったんだと思いますけど、もうそうじゃないです」

 はっきりと言い切る。

「人のせいにするな」

「………」

 香月は郁人の言葉を無視してメニューを見つめた。

「すみません! 同じ物を。後、ワイン3つ」

 それを聞いて、友利は香月の隣に腰かけて来た。

「俺は車がある」

 郁人はしれっと言い切ったが、

「代行で帰ればいいじゃないですか。そんなの」

「………」

 睨んで来る。だけど、酒は嫌いではないのか、飲む気になったような気がした。

 友利は順当に自分が食べる分を注文している。

「……、今日はお仕事だったんですか?」

「だったら何だ」

 つん、としたまま、パスタを食べ終えたそのタイミングでワインが到着した。

「はい、どうぞ」

 香月は、郁人に勧め、

「……」

 郁人もそれを簡単に飲んだ。

「……あの男をよく落とせたな」

 その声に、香月と友利は同時に郁人を見た。

 視線に気づきながら、郁人はしれっと「幾人か分からないくらい男を落としたか」と、笑いながらグラスを傾けた。

「あなただってカフェで女の子にキャーキャー言われてるじゃないですか。根こそぎいってるんでしょう、きっと」

 だが、郁人はそれには乗らず、

「戸嶋(としま)はもう随分前から公安が追っていた男だ」

「………」

 そこで香月はようやくあの男が戸嶋という名前であることを知った。その続きは聞きたくない。

「ワインおいし」

 強引に別の話題に移ったつもりだが、

「あんたにうつつを抜かして、簡単に捕まった。こっちもびっくりしているくらいだよ」

「……」

「『あれは天使でも悪魔でも魔女でもない、人間の女だ』と取り調べで話したそうだ」

「私を?」

 香月は簡単に郁人の顔を覗き込んだ。

「どんな魔法を使ったのか、知りたいくらいだね」

 友利が注文したビーフシチューがテーブルに並ぶ。

 香月はそれを待ってから、

「話したことなんて一言もなかった。ただ……最初に鉄砲が出てきたから怖くて……」

「「鉄砲」」

 友利と郁人の声が被り、2人とも笑いを堪えている。

「あんたが前に付き合ってた巽光路。あいつもただ者じゃあない。その、鉄砲の1つくらいその辺にころがってたろ?」

 香月は言われるがままに過去を遡ろうと試みたが、

「ない。ないよそんなの。その…なんというか。その戸嶋という人は、ほんとに最初からそれを出してきて…私、あの人の言いなりになってたのに、その、天使とか悪魔とか、魔法なんてこっちがその鉄砲によって魔法をかけられたくらいなんだから」

 そうだったんだと、自らを納得させる。

「あんたはもうちょっと自覚した方がいい」

 前後もなく、ずい、と郁人は真正面から指を差してくる。

「その外見で男が寄ってきてるんだ。そこの、でかい男も」

 香月は思い出したように振り返った。

 だが、友利の澄ました表情は何も変わらない。

「勝手に俺の内心を読んだように言わんでくれ」

 だが、それは無視され、

「あんたは適当に職場で男を掴まえて、家に入っとけばいいんだよ。もうこれ以上は事件事に首を突っ込まない方がいい」

「だって私、結婚できないんだもん」

 香月は簡単に答えた。

「……その年まで独身なら、性格にでも問題があるんだろうな」

 郁人にずけずけと言われ、さすがに腹が立って、

「私、卵管切っちゃってるから無理なの」

 できるだけ、軽く、酔いに任せて言い切る。

「よせ」

 友利が肩に手を置いてきたので、肩で払った。

 郁人がこちらを見たのが気配で分かった。戸惑って黙るかと思いきや、

「それがどう関係する?」

 普通に聞いてくる。

「……子供が出来ないって意味」

「結婚には関係ない」

 それは…制度的にはそうだろうけど…。

「でもさ、もしあなただったら結婚したらその人の子供が欲しいとか思わないの?」

 ある程度、慰めの言葉を期待して聞いたつもりだったが、

「もちろん。それが普通だ」

 分かっていたことだった。

「なんでそうなったのかは分からないが、それで気を引くのはよした方がいい」

 でもそういう言い方って。

「帰るぞ」

 友利は腕を持ち上げてくるが、それを振り払い、

「勝手にいなくなったくせに」

 震える声で友利に対抗した。

「どこに帰るっていうのよ。私、あなたの家に行ったら、あなた、いなくなってたのよ!? なんにもなくって、電話だってつながらないし…、それが、今日突然……」

 こんな時にだって電話は鳴る。

 着信音が偶然にも全員同じだったのか、全員が固まり、耳を澄ませた。

「俺だ」

 察した友利はポケットからスマホを取り出し、液晶を見つめて停止する。

「出てきたら?」

 友利は2秒考えたが、そこで「はい」と返事をし、足早に外に出た。

 テーブルの上には、いつから吸っていたのか、灰皿の上にはまだ煙が昇る煙草がある。

「………」

 なんとなく、それを手に持ってみる。

 煙は細く天井に上がり、独特の匂いが広がる。

「何を不安なことがある」

 唐突に問う郁人の意図が分からず、無言でそちらを見た。

「何を迷う事がある」

 郁人は短くなりつつある煙草を勝手にもぎ取ると、

「やりたいようにやればいいんだよ」

 唇をつけて大きく息を吸う。

 煙草、吸えるんだとじっと見ていると、その、顔が近付いてきたが反応するのが遅かった。

 唇と唇が合わさり、そこに煙がすーっと入ってくる。

 突然の事に驚いた香月は大袈裟に咳き込んだ。

 もはや、郁人の意思や、行動など全く理解できるはずもなく、大混乱に陥る。

「帰るか」

 郁人は咳き込む女を見事に放ったまま、簡単に椅子から立ち上がり、伝票を取って行ってしまう。

 すぐ後から来た友利が背中をさすってくれたおかげで正気を取り戻す。

 だがしかし、あれだけは手に余る、酷い男だと、二度と会いたくないと心底思った。





 訳の分からないキスのせいで、妙にテンションが上がってしまった香月は、自ら友利の腕を取り、会計は彼に任せて店の外に出た。

 酔いもまだ少しだけ回っている。

「家行きましょう、家」

「…あぁ……」

「お酒、何かあるんでしょぅ?」

「ウイスキーならあるが…」

「ウイスキーかぁ……飲めないかも」

 というか、飲めないが、すぐそこのコンビニに寄るようなまどろっこしい事もしたくない。

 友利の腕に自らの腕を回す。

 そうだ、自分はそれがやりたいのだ。それに何を迷う必要がある。

「何階でしたっけ?」

 マンション敷地内に足を踏み入れたと同時に聞くと、

「二階」

 言いながら、唇が唇に降って来る。

 さっきの郁人の件を見られていたかもしれないと、少し不安になったが、構いはしない。合意の上ではなかったのだ。




「……二階」

 それ以外に言葉が出ない。

 酒のせいかそれとも、遊佐に何か吹き込まれたせいか、見当がつきかねた明星であったが、この完璧なまでに整った女が、俺の腕を取り、体重をかけながら寄り添って来たのであれば、後のことはどうでも良いとキスを落とした。

「……二階」

 そう言い、抱きしめようとしたが、タイミング悪く先に一歩足を踏み出されてしまう。

 まあ、部屋に入ってからでもいい。

「郁人さん、酷い男でしたね」

 外事一課の遊佐と二課の俺は一緒に仕事をしたことはないが、彼がエースであることは間違いなく、要領の良い、賢く、頭のまわる男だと聞いている。

「酔っていたんだろう」

 それくらいに留めておく。

「友利さんは全然酔ってないんですか? どうしようかな。酔って話すとまた嘘つかれちゃうかもしれないから、酔わないで下さい」

「君の言う通りにしよう」

 今日は最初からそのつもりだ。

 鍵を開けて、先に中へ通す。

「あー、ほんとだ。あれ、前の家にもありましたね!」

 まるで我が家のように、勝手に靴を脱いで上り込んでいく。

「このソファとか。全部持ってきたんですか」

「悪かった。仕事でアメリカに行ってたんだが……」

「ダメ」

 彼女は、これ以上ないほどに魅惑的にこちらを睨むと、どすりとソファに腰かけて、足を組み、更に腕も組んだ。

 その足を舐め、ひれ伏す事だってできる、と一瞬考えてしまう。

「ちゃんと最初から説明してください。年齢、生年月日、性別…」

 言いながら自分で笑っている。

「んんん、えっと、じゃあまずは性別から」

 彼女は自分で切り替えると、上目遣いでイタズラに睨んで来る。

 その時点で既に抱き締めたくなり、すり寄るようにソファになだれ込んだ。

「ちょっ!」

 我慢出来ずに抱き締め、髪の毛の香りを嗅ぎ、唇をつける。

「ちょっとー、待って!」

 だが、彼女は腕を突っぱねて制し、

「待って! 聞いてるのは、私!」

「はい……」

 俺は仕方なく、お預けを受け、身体を離す。

「性別は?」

「男だ」 

 自信を持って答える。

「じゃあ名前は?」

 彼女は睨むほどに見つめ、

「……明星 一矢…」

「一矢……何で嘘ついたの?」

 親が子供をしかるように、全て御見通しだったと言いたげだ。この様子だと、郁人から聞いたのだろう。

「仕事柄…仕方なく」

 それ以上もそれ以下でもないが、理解は到底してもらえないことは確かだと思う。

「引っ越しも、全部仕方なく?」

「ああ」

「連絡する気はあったの?」

「仕事が終わったらするつもりだった」

「仕事って公安なんでしょ?」

「………」

 それは本来、口外禁止だ。

「もいいよ。知ってるから。はいはい、きっと言えないのね。それで、アメリカに行ってたと」

「…まあ…」

「行ってたって事にしてたの?」

「いいや、実際に行ってた」

「……で、年齢は?」

「34」

「嘘でしょ!? 2個上!?」

 彼女は大きく瞳を開いて、ぱちくりさせた。

「本当だ」

 苦しいが、事実を言う。

「ひど。全部違う! あのね、それで人を騙した上でキスなんてしようとする??普通」

 というよりは、こちらが誘われたんだが。

「その……悪かった。最初から名前を言うわけにはいかないんだ」

「でしょうけど!!」

 理解はしてくれているようだか、そう言われると、こちらも戸嶋の事を言いたくなってしまう。

「で……さっきはなんで、キスしたの?」

 ここぞとばかりに本題に入ってくる。

 俺は覚悟を決めて、

「それは……」

 腕を伸ばし、身体を抱きしめる。

 ああ、もうこれ以上は抑えられそうにない。

 顔を傾け、唇を奪いにいこうをとすると、

「聞いてるの!」

 顔を押しのけられた。

「なんでさっきキスしたの? どういう意味なの? 今度キスして逃げたら許さないからね」

「当然だ」

 今回はそういうつもりはない。

 前回もそういうつもりではなかったが、香月が中国マフィアに狙われないように画策していたが運悪くこちらの身元がバレそうになったので、仲間が勝手に引っ越しをしてくれたという具合なのだ。

「…」

 もう一度唇を…

「待って」

 再び目の前に掌を出されて、お預けをくらう。

「今度捨てたら………許さないから」

 その掌の向こうには、こちらを射抜くほどに見つめ、涙を溢れさせる美しい顔があった。

 その手首を取り、今度こそキスをする。

「幸せにしないと許さないから!」

 応えるように、ぎゅっと抱きしめる。

「私のことを、全部受け入れて、全部理解して……」

 もういいと唇を重ねたが、まだ続けてくる。

「きっとあなたにしかできない」

 彼女は大きく身を乗り出すと、抱きしめ返してくる。

「私のことはあなたにしか分からない」

「そうだ」

 間髪入れずに答える。

「全部理解して。私のことを、私のことだけを考えて。私のことしか考えないで」


< 8 / 8 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ

総文字数/165,407

恋愛(純愛)44ページ

表紙を見る
この人だけは絶対に落とせない

総文字数/141,580

恋愛(オフィスラブ)40ページ

表紙を見る
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop