ウソキオ 〜 ウソのキオク喪失から始まる同棲生活〜
3、 名前は呼び捨てだよ

◯ カイのマンション

リビングからベランダに続く掃き出し窓をガラリと開けると、 心地よい風と、 遠くに聞こえるクラクション。

眼前に広がるパノラマは、 地上90メートルならではの眺望だろう。

眼下には運河が流れ、 その向こうには公園の緑が輝いている。
今は曇っていて見えないが、 晴れた日には西に富士山が望めるという。


カイ 「どう? 気に入ってくれたかな? 」

片手でサッシにもたれながら、 カイが声を掛けてきた。

糸 「凄すぎて…… ちょっと愕然としています」
カイ 「愕然? 」

糸 「タワーマンションの豪華さと、 カイ先生がその最上階の住人だという事実に…… 」
カイ 「ああ…… 」

カイはベランダに出ると、 糸の隣で柵に背を預けて微笑んだ。


カイ 「これは祖父の税金対策だよ。 祖父が所有してるこの階の4戸のうち、 モデルルームにしてた部屋をそのまま譲り受けた。 俺がローンを払ってることになってるけど、 実際には祖父が非課税の生前贈与枠で払っている」

糸 (つまり…… 先生のお祖父様はこの高級マンションのオーナー…… )


***


≪糸の回想≫

◯ 間宮家のリビング


母 「えっ、 カイ君は、 あの『成瀬グループ』の御子息なの?! 」

カイ 「はい…… でも祖父の方針で普通に入社試験を受けて今の会社に入りましたし、 社内でも会社のトップ以外は僕の素性を知りません」

父 「だが、 いずれはグループのトップとなるんじゃないか? 」

カイ 「はい…… 僕にその器があると認められれば…… でしょうが」


途端に父と母が顔を曇らせてアイコンタクトをする。


父 「カイ君、 『成瀬グループ』と言えば、 有名なグループ企業じゃないか。 ホテルやゴルフ場で、 大抵のビジネスマンはお世話になっているよ。 そんな所に糸が嫁いで上手くやって行けるかは甚だ怪しいと思うんだがね」

カイ 「糸さんなら僕の両親も気に入るはずです。 それに、 何かあれば僕が全力で守ります」

母 「それにしてもねぇ…… そんな立派なご家庭とうちじゃ釣り合わないし、 お付き合いもね…… 」


難色を示し始めた両親に、 カイは必死で食い下がった。

カイ 「それでは、 僕にチャンスをいただけませんか? 家庭の事情も説明せずにいきなり婚約というのは僕が性急過ぎました。 まずは一緒に生活させていただいて、 落ち着いた頃に糸さんを家族に紹介させていただきます。 その上で、 糸さんがどうしても婚約が嫌だというなら諦めます。 まずはとにかく、 糸さんにもう一度好きになってもらうための機会をいただきたいんです! 」


「お願いします」と頭を下げられて、 両親は不承不承、 頷いたのだった。

≪糸の回想終了≫


***


糸 (私もあれから『成瀬グループ』について調べてみた。 30社以上の企業で構成される『成瀬グループ』は、 都心を中心にホテルチェーンやゴルフ場、 マンション経営など多角的に事業を行なっていて、 カイ先生が就職した『(株)ナルセ 』はグループの中核企業。 つまりカイ先生は、 そこで修行中の身ということなんだろう)


糸 「私って、 本当に先生のことを何も知らなかったんですね」

カイ 「それを知るための同棲だろ? 」

カイは目を細め、 糸の髪を指先でサラリと撫でた。
糸がビクッとして首をすくめると、 クスリと笑って身体を起こす。

カイ 「おいで。 部屋を案内するよ」

カイは当たり前のように糸の背中に手を回し、 室内へとエスコートして行く。


カイの住居は、 都会のど真ん中にある地上29階、 地下1階のタワーマンションの最上階にあった。

2面バルコニー付きの3LDK角部屋。
20畳のLDKにはイタリア製のアンティーク家具が一揃い。 まるでモデルハウスから丸ごと運んで来たみたいだと思っていたら、 まさしくここが元モデルルームだったというわけだ。



糸 (わあ、 凄い! )

オープンキッチンにはガラストップのコンロにグースネックの水栓。 ディスポーザーと最新式の食洗機が付いている。
キッチンカウンターとパウダールームの洗面台には御影石が使われていて、 浴室は断熱クッション入りの速乾床。 もちろん浴室乾燥付き。



最後にカイは、 LDKに面した扉をカチャリと開けた。

カイ 「糸はこの部屋を使って」

糸が与えられたのはLDKから扉一枚隔ててすぐの6畳の洋間で、 糸が持参した荷物を全部入れてもスペースが余りそうなウォークインクローゼットがついている。 南側にリビングと同じ広さのベランダがあるのを見ると、 どうやらここが主寝室のようだ。


糸 「あの…… ここがメインのベッドルームですよね? 先生の部屋だったんじゃないんですか? 」

カイ 「俺が使ってたベッドだと気になる? シーツは新しいのに替えたんだけど。 嫌なら今度、 新しいベッドを見に行こうか」


クイーンサイズのベッドには糊のきいたペパーミントグリーンのシーツが掛かり、 同じ色のベッドセットで整えられている。 カイが糸の好きな色で揃えてくれたらしい。

白いドレッサーやキャビネット、 デスクセットも、 明らかに糸のために搬入された新しい品だった。


糸 「あの、 嫌とかそういう事じゃなくて…… 先生の部屋を私が使うのは申し訳ないです。 私はこんなに広い部屋じゃなくても…… 」

カイ 「元々その部屋は寝る時しか使ってなかったんだ。 俺は廊下側にある仕事部屋にいる事が多いから、 その隣の客室で寝る方が効率がいい」

糸 「でも…… 」

カイ 「それよりも…… 糸の荷物は本当にこれだけでいいの? 」


カイがリビングのソファー脇に置かれている2個のスーツケースに目をやった。

糸 「はい、 とりあえず…… 」

カイ 「とりあえず……ね。 いつでも逃げ出せるように…… って事なのかな? 」

糸はギクッとしてカイから目を逸らす。


糸 (さすが先生、 鋭い! )


同棲するとは言っても、 所詮は同情心から始まったもの。 カイ先生の気が変わればそれで終わり。
期待してガッカリするよりは、 いつでも出て行ける心構えをしておいた方がいい、 糸はそう思っているのだ。

だから、 すぐに帰ることになる場合も考えて、まずは最低限の身の回りの品だけを運び込んだのだった。


そんな糸の心を知ってか知らずか、 カイはソファーまでスーツケースを取りに行き、
「逃がさないけどね」とボソリと呟いた。


糸 「えっ、 何ですか? 」
カイ 「いや、 何も! 」

カイはスーツケースを糸の部屋に運び込むと、 クローゼットの扉に片手をついて、 ジッと糸を見下ろした。 いわゆる壁ドンというヤツだ。


カイ 「ねえ糸、 どうしてずっと敬語で話してるの? 」

糸 「えっ? だって先生だし…… 」

カイ 「今はもう先生じゃないし、 俺を1人の男として見てくれるんじゃなかったの? 」

糸 「それはそうですけど…… 」

カイ 「それに、 どうして俺の名前を呼んでくれないの? 」

カイはグッと身を屈めて、 至近距離から糸の目を見つめる。


カイ 「糸、 俺の名前を呼んでみて」
糸 「えっ? …… カイ? 」

名前を呼ばれた途端、 カイは蕩けるような笑顔を見せて、 糸の頭にポンと手を置いた。

カイ 「そう、 今日から名前は呼び捨てだよ。 俺たちは以前から名前で呼び合っていたんだから。 もちろん敬語もナシで」


糸 (1度だって呼んだ事なかったですよ! )


***


◯ マンションのダイニング

糸 「はい先生、 コーヒーをどうぞ」

糸がトレイで運んできたソーサー付きのコーヒーカップをカチャリと置くと、 途端にカイが不機嫌な顔をした。


カイ 「……カイ」

糸「…… カイ、 コーヒー出来ました」
カイ 「…… 出来た」

糸 「カイ、 コーヒー出来たよ」
カイ 「うん、 よく出来ました」

カイは5点セットの黒いツヤツヤのダイニングテーブルに両ひじをついて、 ニコニコしながら糸を見上げる。
座っている椅子はヨーロピアン調のシルバーダマスク。 クルンとした猫脚に気品を感じる。


新居での糸の初仕事は、 カイにコーヒーを淹れる事だった。
とは言ってもカプセル式のコーヒーメーカーにカプセルと水をセットするだけなので、 誰でも簡単に出来るのだけど。


カイ 「うん、 糸の味だ。 やっぱり糸が淹れてくれるコーヒーが最高だな」

カイは糸が運んできたコーヒーをコクリと一口飲んで、 満足げに口元を緩ませる。

糸 「淹れたのはコーヒーメーカーですけど」
カイ 「だけど、 糸のがいいんだ。 覚えてる? 家庭教師に通ってた時も、 こうして糸がコーヒーを淹れてくれてたんだよ」

糸 「……。」


糸 (もちろん覚えている…… けど、 覚えてるとは言えない)


***


≪糸の回想≫

◯ 糸の部屋

勉強机にカチャリと置かれるトレイ。 中には2人分のコーヒーカップ。

糸 「はい、 先生、 どうぞ」
カイ 「ありがとう」

2つの椅子のうち片方に座っているカイが、 コーヒーを一口飲んで、 満足そうに目を細める。

カイ 「うん、 糸ちゃんが淹れてくれるコーヒーはいつも美味しい」
糸 「コーヒーメーカーが淹れたんですけどね」
カイ 「うん、 だけど糸ちゃんのがいいんだ」

頬をポッと赤く染めて照れる糸。

2時間の授業を週に2回。 授業の合間の短いコーヒーブレイクは、 糸が大好きな時間だった。

糸の高校の話、 カイの大学の話……。
先生がコーヒーを飲み終えるまでは、 勉強を離れて他愛もない話をする事が出来たのだ。

≪回想終わり≫


***


糸 (あの頃は、 先生のカップの中のコーヒーが永遠に無くならなければいいのにって、 毎回思ってたっけ…… )

遠くから聞こえるカイの声。

カイ 「…… と? 」

カイ 「いと? …… 糸、 大丈夫? 」
糸 「えっ? あっ、 はい! 」

思い出に浸っていたら、 カイに呼ばれて現実に引き戻された。


カイ 「何を考えてたの? 」
糸 「えっと…… 本当に先生と生活を始めるんだなって」

カイ 「カイ…… でしょ? 何? やっぱり不安? 俺が怖い? 」

カイが頬杖をつきながら、 穏やかな口調で問いかける。


糸 「ううん、 先生…… カイはとても優しいから怖くない。 だけど、 やっぱり不安はある」
カイ 「どんな事が不安なの? ここでの暮らし? 俺の家族のこと? それとも俺の記憶だけがポッカリ消えてること? 」

糸 「漠然としてだけど…… その全部なのかも」

糸 (そして記憶がないフリをしている心苦しさも)


カイ 「う〜ん、 そうか…… 」

カイは腕を組んで何か考えていたけれど、おもむろに腕を解いて顔を上げた。


カイ 「うん、 そうだな。 ルールを決めよう」
糸 「えっ、 ルール…… ですか? 」

カイ 「そうだ。 2人の生活を円滑にするために、 ここでの俺たちのルールを決めよう」


カイは名案だと言うように、 うんうんと笑顔で頷いた。
< 3 / 8 >

この作品をシェア

pagetop