【天敵上司と契約婚】~かりそめの花嫁は、きっと今夜も眠れない~


屋敷の最奥。

夫婦の寝所がある廊下の突き当りの(ふすま)の前で、左側の侍女が頭を垂れて室内へと声をかける。

襖には、見事な筆致で西園寺家の家紋である天翔ける龍が左右対称に描かれていた。

生業にしているゲームのイラストレーターとしてならば、かぶりつきで鑑賞したい迫力満点の本物の水墨画だが、残念なことに布面で視界を遮られた結衣は気づかない。

もっとも、見えていたとしても、緊張の極致でそれどころではないだろうが。

「旦那様。若奥様をお連れいたしました」

数瞬の間の後、笑いを含んだ低音の声が応えた。

「ああ、待ちかねたよ……」

低く響く柔らかな声に、びくりと小柄な結衣の華奢(きゃしゃ)な肩が跳ね上がる。

よく聞きなれているはずの声は、発せられるシチュエーションが違うせいか、まるで別人のように聞こえた。

「こちらも準備は整っている。部屋に入ってくれ」

跪いた二人の侍女がうやうやしく、左右の襖をそれぞれ音もなく開ける気配を、結衣は息をつめて布面越しに感じた。

――ゴクリ、と思わず結衣の喉が大きく上下して、急激に鼓動が早鐘を打ち始める。

(に、逃げたい。このまま、この邪魔くさい布面をはぎ取って、巫女さんコスプレもどきのナイトドレスの裾をまくり上げて、一目散に逃げ出したい……)

しかし、それはできない相談だった。もしもそれをしてしまったら、すべてが水の泡。

なけなしの理性が、結衣の逃走本能の暴走をかろうじて封じ込める。


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