シンデレラと恋するカクテル
第4章
〇月曜日、個別指導塾での講師のアルバイト

菜々は白いブラウスに紺色のスーツで、塾講師のアルバイト。

〇火曜日、予備校の受付のアルバイト

菜々は淡い水色のカットソーに紺色のスーツで、予備校の受付のアルバイト。

〇夜、バー・サンドリヨン

初めてのバーでのバイトにドキドキしながらサンドリヨンに向かう菜々。

菜々(バイトの穴埋めになると思って簡単な気持ちで引き受けちゃったけど、どんな仕事内容なんだろう。料理はできるけど、私、カクテルなんて作れないし)

サンドリヨンには六時半に着いた。CLOSEDの札の下がったドアをノックすると、鍵を開ける音が聞こえてドアが開き、永輝が顔を出す。

永輝「やあ、菜々ちゃん。ずいぶん早く来てくれたんだね」
菜々「こんにちは。初めてでよくわからないんで、いろいろ教えてもらおうと思って……」

永輝はドアを大きく開けて、彼女を中に通した。

永輝「ちょうど制服も届いたんだ」
菜々「本当ですか?」

永輝はバーカウンターの横の廊下を通って、すぐ左手にあるドアを開けた。

永輝「バーカウンターの真裏を休憩室として使ってる。ここで着替えたり休憩したりしてくれたらいいから」

案内された休憩室は、十畳くらいのフローリングの部屋で、入ってすぐのところに簡易キッチンがあり、中央には折りたたみ式のローテーブルが置かれていた。壁際には三人掛けの大きなソファがあり、その横には扉付きのダークブラウンのハンガーラックがある。永輝がその左側の扉を開けて、ビニールカバーに包まれた真新しい制服を取り出した。

永輝「俺と同じ、白いシャツに赤色のクロスタイ、それに黒のベストと……菜々ちゃんはスカート」
菜々「あ、はい」
永輝「着替えたらバーに来てくれるかな」
菜々「わかりました」

菜々が返事をしている間に永輝は部屋を出て行った。菜々は広い部屋を見回して、ホッとため息をつく。

菜々(私のアパートの部屋よりも広い……)

菜々(あの狭いアパートで一人寂しくご飯を食べるより、ここでまかないの食事を取る方が贅沢な気分を味わえそう)

菜々は制服のカバーを外した。着てきたスーツの上下とカットソーを脱いで、制服のブラウスに袖を通す。タイトスカートを履いて後ろのファスナーを上げた菜々は、ロッカーの扉の鏡に映る自分の姿を見て目を丸くした。サイドに深く入ったスリットがやたらとセクシーで、ついついスカートの裾をつかんで引き下げたくなる。

菜々(バーテンダーの制服ってみんなこんななの? それとも永輝さんってこういうのが好みなのかな……)

菜々はベストを羽織ってクロスタイのボタンを留めた。そうしてドアを開けてバーに入ると、永輝はカウンターの上を布巾で拭いていた。

菜々「お、おかしくないですか」

菜々がおずおずと言うと、永輝が笑顔になる。

永輝「うん、似合ってる。かわいいな」

久しぶりに聞いたほめ言葉に、菜々の心臓がトクンと音を立てた。

永輝「こうして並ぶと似合いのカップルだな」

永輝が菜々の横に並んで立った。菜々より十五センチほど高い位置で、彼の端正な顔が微笑む。

菜々(永輝さんってそういうセリフを普通に言うのよね……)

いちいちドギマギしてたら心臓が持ちそうにない。菜々は胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。

菜々「まずは何をすればいいですか?」
永輝「お、仕事熱心だね。じゃあ、まずはそっちの丸テーブルを拭いてくれるかな。それからスツールの座面と背もたれも布巾で拭いてほしい」 
菜々「わかりました」

菜々は永輝から新しい布巾をもらって、丸テーブルを拭き始める。店内にはカウンター席が六席と、丸テーブルが四脚、それぞれのテーブルの周りに脚の長いおしゃれなスツールが三脚ずつある。

菜々「サンドリヨンは十八人で満席ですか?」
永輝「そうだね。でも、お客さんは多くても十人ちょいくらいかな。少ない日だと二人とか」
菜々「あ、それって、きっとカップルですよね」
永輝「そうそう。菜々ちゃん、勘が鋭い。でも、女性同士のときの方が多いかな」

菜々(その女性たちはきっと永輝さん目当てなんだろうな)

菜々はカウンターにチラリと視線を送った。そこでは永輝がグラスを磨いている。その横顔は凛々しいほど真剣だ。

菜々(前の前の前の……何人か前の彼女と別れてから、ずいぶん遊んでそうな感じだったけど、周囲の女性の方が永輝さんを放っておかないのかもしれないね……)

菜々の視線に気づいて、永輝はニヤッと笑って菜々を見た。

永輝「何、菜々ちゃん。俺に見とれてた?」
菜々「いっ、いいえ! フレアとか掃除とか、バーにかかわることなら真剣なんだなって思ってただけですっ」
永輝「おかしいな、女性に対してもいつも真剣なつもりだけど」

永輝が言って笑った。

菜々(そうなのかな……。私にはまだ永輝さんが前の前の前の……何人か前の彼女を忘れてないから、たくさんの人と付き合ってきたように思えるけど)

そんなことを考えながら菜々がスツールの座面と背もたれを拭き終えたとき、永輝が言った。
永輝「営業時間中、注文を受けたらここにある伝票に、テーブル別かお客さん別に記入してね」

永輝はカウンターの客から見えないところに置いてある小さな伝票を示した。

菜々「はい」
永輝「で、料理だけど、そんなにメニューはないんだ。クリームチーズのディップは箱から出してクラッカーを添えるだけ。唐揚げとかフライドポテトは注文が入ったらコンロで揚げる。サラダは野菜室の野菜を食べやすい大きさにカットしてガラスの器に盛りつける。ドレッシングは客のお好みでイタリアンかフレンチ。まあ、そんな感じ。結構簡単でテキトー。営業時間と一緒で、メニューも俺の気分次第」

菜々は驚きつつうなずく。

菜々「わかりました」

菜々は永輝にグラスや皿などの場所を教えてもらった。

やがて七時になり、永輝がドアの鍵を開けCLOSEDの札を裏返してOPENにした。ほどなくしてOLとおぼしき女性の二人連れがやってきた。一人は白地に黒のグラフィカルなフラワープリントが大人っぽいワンピース姿で、もう一人はキリッとしたベージュのパンツスーツ姿だ。

ワンピースの女性客「永輝さん、また来ちゃいました」

ワンピースの女性はカウンター席に座った。

永輝「ありがとう、嬉しいよ」

永輝ににっこりされて女性がはにかんだ笑みを浮かべる。永輝目当てなのは一目瞭然だ。

パンツスーツの女性客「新しいアルバイトの子?」
永輝「菜々ちゃんって言うんだ。週に三日来てくれる」

永輝に紹介されて、菜々は緊張しながらもぺこりと頭を下げた。

菜々「よろしくお願いします」
ワンピースの女性「もうバイトの子に手を出しちゃダメですよ~。また辞められちゃいますよ」

ワンピースの女性が笑いながら言ったが、その目は菜々をじっと見ている。

菜々(ひえ~、密かに牽制されてる?)

永輝は胸の前で両手を挙げておどけて言う。

永輝「菜々ちゃんには手を出さないって約束させられたんだ。だから、これからはお客様とバイトの子には手を出しません」
ワンピースの女性「えー、私になら手を出してくれてもいいのにぃ」
永輝「そんなことをしたらたくさんの男の恨みを買いそうだ」

永輝がにっこり笑って、パンツスーツの女性を見る。

永輝「ご注文は?」
パンツスーツの女性「じゃあ、この前と同じのを」
永輝「かしこまりました」

永輝は吊り戸棚につけられたグラスハンガーから、永輝が慣れた手つきでワイングラスを取ってカウンターの一段高い場所に置いた。グラスの底にミントチェリーを置き、クラッシュドアイスで満たす。氷の触れ合う軽やかな音を聞きながら、菜々が見ていると、永輝はシェーカーに氷を入れて、数本のボトルからドライジンなど分量のドリンクを注いでいった。最後にストレーナーとキャップをしてシェークしたものを、ワイングラスに注ぐ。

永輝「どうぞ」

ミントの葉を飾られた爽やかな白いカクテルを女性がうっとりと見る。

菜々「あれはなんてカクテルですか?」

菜々が小声で尋ねると、永輝が菜々の耳にささやいた。

永輝「サマー・クイーン」
菜々「ステキな名前ですね」

菜々は頭の中のメモ帳にメモをした。その間に、ワンピースの女性が言う。

ワンピースの女性「私はキス・オブ・ファイアーを」

ワンピースの女性は艶やかな唇でキスを強調しながら言った。

菜々(ひゃー、なんか大人な雰囲気!)

菜々は一人でドギマギしているが、永輝は慣れているのか落ち着いた声で言う。

永輝「かしこまりました」

永輝はカクテルグラスを取り上げた。そしてグラスの縁をレモンで濡らし、皿に広げた砂糖の上にグラスを伏せて砂糖をつける。

永輝「こういうのはスノー・スタイルっていうんだ。カクテルのレシピによっては塩の場合もあるけど」

永輝がつぶやくように、でも菜々にだけ聞こえるように言った。続いてシェーカーにウォッカなどの材料を注いで、シェークする。そうしてスノー・スタイルのカクテルグラスに注がれたのは、見た目にも情熱的な赤い色のカクテルで、ドライベルモットやスロージンの濃厚な香りが漂う。

菜々「わあ、キレイ……」

菜々がつぶやいたとき、バーのドアが開いて、見たことのある男性客が二人入ってきた。一人は菜々が初めてサンドリヨンに来たとき、「永輝がナンパしてきた」と言ったあの男性だ。

大樹「あれ、菜々ちゃん、だっけ。サンドリヨンで働くことにしたんだ」
菜々「あ、いらっしゃいませ」
大樹「また会えて嬉しいなぁ。俺は西田〈にしだ〉大樹〈だいき〉ね。こっちは辻岡〈つじおか〉健太〈けんた〉」

大樹と名乗った彼が、背後にいたひょろりと背の高い黒髪の男性を示した。菜々が初めてサンドリヨンを訪れた日、大樹の横で静かに飲んでいた男性だ。

健太「よろしく」

健太が小さく会釈した。大樹がこの前と同じカウンター席で、女性二人組の隣に座って言う。

大樹「結局、永輝はまたバイトの子と付き合うのか。あ、今回は逆か。付き合ってる子にバイトをしてもらうんだな?」

大樹に言われて、永輝が彼を睨む。

永輝「菜々ちゃんとはそんなんじゃない」
大樹「だって、おまえ、この前……」

大樹の言葉を永輝が遮った。

永輝「さっさと注文を言え」
大樹「なんだよ、俺はおまえに新しい彼女ができて喜んでるのに」
永輝「菜々ちゃんとはそんなんじゃない。菜々ちゃんには手を出さない、おまえらにも手を出させない。そういう条件でバイトを引き受けてもらったんだ」
大樹「なんだ、それ、つまらん」

大樹が心底つまらなそうに言った。健太が諭すように言う。

健太「永輝もたまには女性から離れてみるといいんだよ。その方が、もっと真剣で長い付き合いができるようになるって」
永輝「余計なお世話だよ。で、注文は?」
大樹「いつもの」
永輝「ええと、リンゴジュースだったかな?」

永輝がニヤッと笑って言い、女性二人組が驚いたように大樹を見た。

大樹「バッカ。誰が……」

大樹が顔を赤くしながら永輝を睨む。

大樹「バーでリンゴジュースなんか飲むか。ジン・ライムだよ、ジン・ライム」
永輝「わかってるって。かっこつけるからからかっただけだ」
大樹「趣味悪っ。菜々ちゃん、永輝はこういうヤツなんだから、外見とか甘い言葉に騙されちゃダメだよ」

ふてくされ顔の大樹に言われて、菜々は笑ってしまいそうになる顔を懸命に引き締めた。永輝は大樹の言葉を聞き流して菜々に話しかける。

永輝「菜々ちゃん、これがオールドファッションドグラスね」

永輝が口が広く背の低いタンブラーを取って菜々に見せた。ロックグラスとも呼ばれているものだ。

菜々「はい」
永輝「グラスに氷とドライジン、ライムジュースを入れて、バースプーンで軽くステア、つまり混ぜる。そしてカットしたライムを飾れば完成」

永輝が言った通りの手順でカクテルを作った。

菜々「シェークしないんですか?」
永輝「うん。こういう技法をビルドって言うんだ」
菜々「そうなんですね」
健太「俺は今日はバーボンのロックにしようかな。シングルで」
永輝「了解」

永輝はすばやくオールドファッションドグラスを取ると、氷を入れてバーボンを注いだ。

大樹と健太が「乾杯」と言ってグラスを軽く持ち上げ、それぞれ口に含む。

大樹「あー、うまい。今日も疲れた」
 大樹がほうっと息を吐き出したとき、パンツスーツの女性が彼に話しかけた。

パンツスーツの女性「お二人は永輝さんと親しいみたいですけど、大学のお友達とかなんですか? それとも会社の?」

大樹はそのキリッとした美人を見て、目元を緩めながら答える。

大樹「ああ、大学のときからの腐れ縁ってヤツですね。勤務先はそれぞれ違います。俺は広告代理店で、健太は大学の講師」
パンツスーツの女性「どちらの広告代理店にお勤めなんですか?」

大樹が中堅の代理店の名前を挙げて、彼女が目を輝かせた。

パンツスーツの女性「よく名前を聞きますよ」
大樹「そうですか?」
パンツスーツの女性「ええ!」

大樹と女性二人組が、アボカドとマグロのカナッペをつまみながら盛り上がり始めた。健太の方は一人で静かに飲んでいる。ドリンクの追加注文もなさそうなので、永輝が菜々にささやいた。

永輝「先に晩ご飯食べる? 今日は卵がたくさんあるからオムライスにしようと思うんだけど」
菜々「わあ、嬉しい! ぜひお願いしますっ」

菜々の心底嬉しそうな表情を見て、永輝が目元をほころばせた。

永輝「よし。すぐ作るから、待ってて」

永輝はガスコンロに向かった。ボウルに卵を手際よく割り、フライパンを熱してバターを落としてから、卵液を流し入れる。手早くかきまぜて半熟になったところで火を止め、フライパンを傾けながら皿の上のチキンライスにふわりとのせた。

菜々「わあーっ、上手ですねぇ」

オムライス屋さん顔負けの見事な手際に、菜々は感嘆のため息をついた。

永輝「惚れ直した?」

永輝の軽い口調にも同じく軽いノリで答える。

菜々「はい、もう!」

永輝は驚いたように目を丸くしたが、すぐにふっと笑った。

永輝「じゃあ、先に食べておいで」

永輝はトレイにオムライスとサラダ、オレンジジュースをのせた。

菜々「ありがとうございます」

菜々はトレイを持っていそいそと休憩室に向かった。トレイをローテーブルに置いてソファに座る。

菜々「わー、おいしそう! いただきます!」

この前見た半月よりもふっくらとしたオムライスに気持ちが高鳴る。スプーンを入れると卵がとろりと崩れた。それをチキンライスと絡めて口に入れる。

菜々「ん~、おいしい!」

食べたその一口に、文字通り悶絶する。

菜々(永輝さんってホントに何でもできる人なんだな~。これで真面目になれば本当にいいダンナさんになれそうなのに……。前の前の前の……何人か前の彼女に振られてから、本気の恋ができなくなったのかな。もうその彼女とはよりを戻せないのかなぁ……)

菜々はなんだかやるせない気持ちになってきた。伝えたい人に想いが伝えられないのは、やっぱり悲しい。

その後、永輝が代って休憩に入ったが、菜々を気遣ってか、十五分ほどでバーに戻ってきた。フレア・ショーの始まる十時には、それ目当ての客が増えて、今日は大樹たちを含めて十人の常連客が永輝のフレアを楽しんだ。菜々は永輝が料理するのを手伝いながら皿を運んだり洗ったりして、バーが閉店する午前〇時より一時間早い十一時にバイトを終えた。

スーツに着替えて休憩室から出てきた菜々に、永輝が言う。

永輝「今日はありがとう。すごく助かったよ」
菜々「初日であまり要領よくできなかったんですけど……そう言ってもらえてよかったです」
永輝「遅い時間だし駅まで送るよ」

菜々はあわてて首を振る。

菜々「いいえ! 歩いて十分ですし、大丈夫です! それに、永輝さん目当てのお客様ががっかりしますよ」

永輝は軽く肩をすくめた。

永輝「今じゃ大樹目当てになってるようだけど」

永輝に言われて菜々はバーカウンターを見た。ワンピースとパンツスーツの女性二人組は大樹と談笑している。

菜々「残念ですね」

菜々が冗談ぽく言うと、永輝が黙ったまま、また肩をすくめた。たいして気にしている様子でもない。

菜々「それじゃ、次は木曜日に来ますね」
永輝「ああ、よろしく」

永輝がバーカウンター横の扉を開けてくれた。客が出入りする入り口とは違い、そこは店の横――つまりマンションの横――の狭い路地に出る。

菜々「それじゃ、おやすみなさい」
永輝「ああ、おやすみ。気をつけて」
 
永輝が軽く手を上げてドアの向こうに消えた。菜々は駅へと向かって歩き出したが、知らず知らず跳ねるような足取りになる。

菜々(カクテルのことも教えてもらったし、オムライスもおいしかったし、永輝さんのフレア・ショーもかっこよかったし! 楽しかったなっ)

塾や予備校とは百八十度違う、大人な雰囲気ながらも和やかなバーでのアルバイトを、菜々は気に入り始めていた。
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