溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 闇の中で野獣の咆吼がこだまする。

 振り向くとライトを付けたままの車のドアが開き、誰かの影が見えた。

 美咲!

 声が聞こえた。

 美咲!

 どこだ、美咲!

 日本語だ。

 ここはどこだっけ?

 夢でも見てるのかな。

 私、今、どこにいるの?

「美咲!」

 顔を上げると彼がいた。

 私の愛する人。

 私を愛してくれた人。

 ミケーレ……。

「美咲、どうしたんだ。ずぶ濡れじゃないか」

 彼は私を抱きかかえて車へと運んでくれる。

 エンジンをかけたままのフェラーリが私を待っていた。

「美咲、しっかりするんだ」

 私を脚で支えながら助手席のドアを開けて、彼が中に入れてくれた。

 運転席に回り込んで彼も中に入る。

 ドアが閉まると、雨の音が遠くなる。

 彼もずぶ濡れだった。

「美咲、だめじゃないか。真夜中にイタリアを一人で歩くなんて、いくら日本人でも無防備すぎるよ」

 ごめんなさい。

 口に出して言わなければならないのは分かっていても、声が出なかった。

 彼が車を走らせる。

 ワイパーが単調なリズムを刻む。

「僕はてっきり君があのホテルにいるものだと思っていたよ。アマンダから連絡をもらってびっくりしたさ」

 アマンダが連絡?

 どうして私がホテルを出たことを知っているんだろう。

「どうしたんだい、美咲。いったい何があったんだ?」

 説明などできるわけがなかった。

 私はあなたを裏切ったのよ。

 ごめんなさい、ミケーレ。

「私たち、もう終わりでしょう?」

「まさか、何を言うんだよ」

「私が別れると言ったから。もう元には戻れない」

 彼は私の方を向いて言った。

「美咲、僕は君を愛しているよ。君と別れたくはないし、別れるつもりもないよ」

「前を見て」

 彼は減速しながら私の言葉に従った。

「信じてくれ。僕は君のためならなんでもするよ。君を手放したくなんかないんだよ。僕は君を崇拝している。君は僕のヴィーナス。僕のアフロディーテなんだから」

 私はいつも間違える。

 取り返しのつかない失敗を繰り返す。

 そして、こんなにも愛してくれている彼を裏切ってしまったのだ。

 体が震え出す。

「寒いのかい? もうすぐだ。頑張るんだよ」

 彼は車のヒーターを最大にする。

 熱い風が吹きつけてきて、汗だか雨の滴だか分からないものが額から流れ落ちる。

 寒いのは心だ。

 心の芯が凍りついていく。

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