マリッジライフ・シミュレイション~鉄壁上司は妻を溺愛で溶かしたい~

「雪華さんはまだ帰りませんか?」

斜め上から降ってきた声に顔を上げると、鞄とジャケットを小脇に抱えた幾見君がデスクの隣に立っていた。

「もう八時ですよ?」

「えっ、やだほんと」

ついさっき大澤さんを見送ったはずなのに、もうそんなに時間が経っていたなんて―――

「私はもう少しやってから帰るから。幾見君はもう上がってね」

「俺、手伝いましょうか?」

「ありがと。でもあと少しだから大丈夫。お疲れさま」

「分かりました、お疲れ様です」

帰ろうと背を向けた幾見君に、「あっ」と思い出して声を掛ける。

「幾見君!」

呼び止められた彼が振り向くのに合わせて、私は次の言葉を口にする。

「明日からちゃんと名字で呼ぶように!」

軽く目を見開いた彼は、口の端を軽く上げると

「善処します。ではまた明日―――雪華さん」

笑顔でそう言って帰って行った。

(もうっ、絶対直す気ないわね、あの子)

意外と図太い神経をもっているのだろうか、ちょっとやそっと注意したくらいじゃやめそうにない。さすが営業成績トップの実績を持つエリート。

(って、感心してる場合じゃないわ。若手エリートよりも怖いグループトップの鉄壁(アイアン)エリート様から出された仕事を終わらせないと)

四散そうになる集中力をかき集めるべく、すうっと息を吸い込んでから目の前の画面に意識を集めた。


< 49 / 336 >

この作品をシェア

pagetop