蝉彼岸
 数時間後、玄関の開く音と共に唯月が帰ってきた。
 帰る途中で雨が降ってきたのだろう。雨は彼のスーツにグレーの染みを作っていた。
「ただいま。」
「おかえり。早かったね。」
「うん、途中で雨降ってきたから走ってきた」
濡れたスーツを受け取った私は本題に入ることにした。
「ねぇ、唯月」
「なに?今日はお酒を飲んでないよ」
いまの私には彼の言葉が浮気の話を逸らすためのものだとしか考えられない。
「そうじゃなくて、もう単刀直入に聞くね。
 浮気、してる?」
そう聞くと唯月は少したじろいで長めの瞬きをした。
「うん、してる」
首筋を掻きながら唯月はそう言った。
 あっさり認めた彼は私を見つめた。彼がどんな気持ちなのかは見当がつかなかった。
「あと残り僅かなんだから楽しく生きたいんだ。別にいいだろ」
彼岸花を連想させるほどの首筋で、うんざりしたように彼は溜息をついた。
 水滴が床に滴った。
 あぁ、なるほど。そういうことなのね。
「わかった。もういいよ」
突き放すようにそう言うと私はお風呂に入った。
 視界の片隅に背を向けて俯く夫が写った。  
 お風呂からあがったら彼は寝室にいた。もう寝ているようで、布団をすっぽり被っていた。
 そっと布団の中に入り
「おやすみ」
軽く囁いた。

 その日の夜は唯月の押し殺した泣き声が響いていた。

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