太陽に抱かれて

 朝、重たいガイドブックを置いて、ももはサン・ラザール駅からル・アーブル行きへの列車へ乗った。
 ヴェルノン・ジヴェルニーの駅に着くと、モネの庭へと向かう一行を横目に、東へと街を歩く。ブーランジェリーでジャンボンとチーズのカスクートを、モノプリでミネラルウオーターを、それから、老舗らしいパティスリーで画家への手土産用に焼き菓子を買っただけで、他に寄り道することなく、ももは進んだ。

 画家たちの愛したであろう街並みを、その手でカンヴァスに閉じ込めたであろう、美しい風景を。

 ——彼もあの手で何枚も何枚も、この景色を描いたのだろうか。

 午前ともあってか、日差しはまだ優しい。顎下で切り揃えられたももの髪が風にそよぎ、豊かな水と緑の香りが鼻腔を掠める。

 ——このまろやかな光も、やさしい匂いまでも、あの手でカンヴァスに閉じ込めたのだろうか。


 そんなふうに思いを馳せながら、政治家の名を残す大きな橋を渡り、ももはひたすらあのアトリエを目指して歩いた。


 丘に着くと、今日はイーゼルは立てられていなかった。だが、階段を上がった先には男が立っていて、筆の代わりに煙草を口元で燻らせていた。

 開け放たれたアトリエの扉に背を預けて、色褪せたヘンリーネックの黒いカットソーと油彩の滲んだカーゴパンツで宙を眺めて喫煙する姿は、なんとも様になる。

 昨日は彼の手元ばかりに夢中になってしまったが、よく見るととても綺麗な顔立ちをしている。

 乱雑に撫で付けられたブルネットにグレーの混じる髪や髭、細めた目元に刻まれるそのしわから年嵩を感じはするものの、ヘーゼル色の瞳はどこか若々しい。
 四十代前半、下手したらもう少し下かもしれない。
 煙草を指先にとり、表情を浮かべぬまま紫煙を吐き出すその姿は、渋さや精悍という言葉がよく似合う。
 海外俳優みたいだ、とも思ったが、ここはフランスなのだからそう表現するのはあまりに稚拙だと考えて、胸の内にしまいこんだ。


 風が、二人の間を吹き抜ける。

ボンジュール(こんにちは)

 ももは口にした。
 低く掠れた声で、男からもボンジュールと返事が返された。

「あなたの絵を見たくて、来ました。お手伝いでもなんでもします、ここに居させてくれませんか」

 昨晩から用意した言葉だった。
 列車の中で必死に繰り返したおかげか、間違えることなくフランス語を口にはできたものの、ところどころ震えて、格好は付いていない。

 色素の薄い眉がかすかに顰められ、一層強く醸し出された近寄りがたい雰囲気に、ももはひそかに指先を握る。
 追い払われるだろうか。

 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

Comme vous voulez.(どうぞ、ご勝手に)

 言葉とは裏腹に、その声はたしかに低く、閉ざされているようにも感じた。

「……っ、Merci(ありがとうございます)!」

 だが、許されたことには変わりはない。一瞬呆けたももだったが、ふたたび煙草を唇に挟んで、視線をどこかへ逃した男に、大きな声で礼を告げていた。
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