センチメンタル・ファンファーレ




なぜこんなにあの人の対局が気になるのか。
発端は十日ほど前。
あの居酒屋で遭遇した次の日のことだった。

仕事を終えた私は、湿気を吸って重くなった身体で、マンションのエントランスに続く階段を上った。
負荷のかかったヒールがガツガツ悲鳴を上げる。

「あ、弥哉ちゃんおかえり」

薄汚れた電灯の下に佇む薄汚れた人影は、朗らかに笑った。

「川奈さんって、本当にここに住んでるんだ」

「だからときどき会ってるってば」

「うん。見覚えある。その汚いTシャツ」

「昨日洗濯したばっかりだよ」

ポストは暗証番号を入力して開ける仕組みになっているのに、川奈さんはそのまま扉を開けた。
無用心にもロックしていないらしい。

「川奈さんって新聞取ってるんだね」

パラッと一面を広げて、「まあ、一応ね」と答える。

「棋戦の主催はほとんどが新聞社だから。活字、新聞離れが進んで収益が落ちて、俺たちの対局料も賞金も減額されるばっかり。観戦記も載るから、せめて一紙くらいは取らないとね」

「まさか、今起きた?」

取り出したのが夕刊だけではなく朝刊も一緒だったのでそう訊くと、「まさか! 今七時過ぎだよ?」と逆に怪訝な顔をされる。

「昼頃起きて、夕方から昼寝して、一時間くらい前に起きたところ」

「寝てばっかりじゃない」

「昨日の夜眠れなくって」

いくつかのDMや広告をまとめて取り出し、再びポストを閉じる。
やはりロックはしないらしい。

「昨日って言えば、本当にご馳走さまでした。お礼が遅くなってごめんなさい」

川奈さんは笑って丸めた新聞を振り回す。

「いいよ、いいよ、別に」

「でも、対局料も下がってるのに、たくさんご馳走になっちゃって」

「下がってるのは確かだけど、収入は増えてるから大丈夫」

「お兄ちゃんが奢ってくれるんだと思って、全然遠慮しなかったの」

「毎日奢ってるわけじゃないし、あのくらい平気」

「それでも、今度何かお返しさせてください」

深く下げた頭の上で「うーーーーん」といううなり声が聞こえていた。

「あ、そうだ!」

その声に顔を上げると、川奈さんは新聞に挟まっていた広告のひとつを広げる。

「じゃあ、これ買ってきて」

「これってドーナツ?」

それは駅前ベーカリーの広告だった。
人気のクマのキャラクタードーナツを今日から販売しているようだ。
写真だとほとんどぬいぐるみに見えるくらい、そのクオリティは高かった。

「かわいいよねー。でも買う勇気が出ない」

「気にすることないと思うけど」

「無理。あのベーカリーの女の子かわいいもん。『クマのドーナツひとりで食べるヤツ』って思われたくない」

「“クマのドーナツひとりで食べるヤツ”で合ってるでしょ」

「でね、それを届けて欲しいんだ。えーっと……来週の金曜日の朝」

「朝?」

ベーカリーは七時からやっているので、出勤前に買って来られないこともない。
朝の時間は貴重なので正直面倒ではあるけれど、お礼だと申し出た手前、今さら撤回できなかった。

「来週の金曜日ね。わかった。出勤前だから早い時間になるけどいい?」

「お願いします」

差し出された広告を受け取った。
中身はバナナクリーム。
一個300円(税別)。

「でも、こんなのでいいの?」

「世の中、人件費や技術料が一番高いでしょ。俺なんてまさに技術料だけで生きてるから」

「まあ、そうなんだけど」

私もポストの中から広告類を取り出すと、エレベーターのボタンを押す。
ほんの二階に住んでいるくせに川奈さんも隣に並んだ。
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