いきなり図書館王子の彼女になりました
 恐る恐る、玄関のドアを開けると。

「おはようございます、沙織さん!」

 肌ざわりの良さそうな濃紺のセーターの上に、淡いグレーのウールジャケットを羽織った司君が目の前に、立っていた。

 お天気がいい朝に、キラッキラの司君。

 彼はホワイトの小さなキャリーケースを片手で曳いている。


「…おはよう、…司君…」


 …あまりにも眩しくて、一瞬眩暈が…。


 驚き過ぎて、言葉が続かない。

 彼は、ちょっと照れた様に口を開いた。

「…びっくりしました?沙織さん。僕、今日からここに入居するんです!」


 ……!!!


 ……心臓がまた、妙なリズムを刻みだす。

 やっぱり司君が、新しい入居者?!!


「…びっくりした…!」


 …としか、言いようがない。

 びっくりを通り越して、卒倒しそう。



「『多分明日も会える』って、昨日言ったでしょう?」

「…そうだったね…」

 あの言葉の意味は、こういう事だったんだ!

「でも、本当に偶然なんですよ?昨日沙織さんをここに送って来るまで、同じシェアハウスに住む事になるなんて、僕も知らなかったから」


「…そうなの?!」


 彼は悪戯を思いついた子供の様な表情で頷いた。


「驚いた沙織さんの顔を、見てみたくて」


 昨日の夜は内緒にしていました。
 という確信犯的笑顔。



 こんな偶然が、あるのだろうか?!



 彼は、私の手を握った。


 ……また手を!!!




「一緒のシェアハウスに住めるって昨日分かった時、すごく嬉しかったです!」


「……」


 握られた手の温かさが、私の現実と非現実をごちゃまぜにしていく。


 状況について行けず、言葉が全く出て来ない。昨日もそんな気分に陥った事を、デジャブの様に思い出してしまう。


「沙織さんは、嬉しくないですか?…僕が一緒のシェアハウスに住むの」


 ……。


 彼は少し、心配そうな様子で私を見つめている。

 あまりにも私が戸惑っているから、不安にさせてしまったのかも知れない。


 私は、あわてて首を横に振った。


 …それは。


 …嬉しいか、嬉しくないかと聞かれれば、
 

「…ううん、嬉しい。上がって、司君」



 …本当は、嬉しい。



 彼は少し、ホッとした様な笑顔を見せた。
「良かった!これからよろしくお願いします、沙織さん」

「…こちらこそ、よろしくね」

 私は徐々に現実を受け入れ、先に家に上がってスリッパを出し、司君を家の中へ招いた。

「ここに10時に来るように言われていたんです、深森燈子さんに。…ちょっと早く着いちゃったけど、大丈夫かな?」

 彼は廊下を歩きながらあちこちに視線を向け、燈子さんを探した。

「実はね、燈子さん今日、いないの。急に予定を思い出しちゃったんだって」

「……そうなんですか」

 リビングのドアを開ける。

「ごめんね、司君。私、良かったら家の中とか近所を案内するから…」

 彼はそれには答えず、感嘆の声を上げた。


「…わあ!」


 リビングの中央にある飾り付け途中だった大きなクリスマスツリーを、彼は眺めている。


「あ、これ?今ね、飾り付けしていたの。まだ未完成だけど」

 彼は目を見開き、その笑顔は輝きを増した。

「…僕も、やってみたいです!」

「…やった事無いの?ツリーの飾り付け」

「はい!」

 …家にツリーが無かったのだろうか。

「じゃあ、後で手伝ってもらってもいい?」

「ぜひ!」

 …司君、一体どんな幼少期を送っていたんだろう。全然想像がつかない。

 家の中を観察しながら彼は、楽しそうにはしゃいでいる。まるで、誰かが住んでいる家に入った事が一度も無い様な感動の仕方だ。

 リビングからキッチンへ移動した彼は、キッチンカウンターの端に置いてある白いボードを手に取った。

「…これは何ですか?」

「お風呂用のボード。入浴したい希望時間を、その日の朝に書いておくの」

 ボードには『9時:有沢』『10時:増田』『11時:高野』と書いてある。

「お風呂は1人1時間まで。入りたい時間帯は書いた人順で早い者勝ち。洗濯機用のボードもあるよ」

 私はキッチンから見えている洗面所の、壁面に掛かった緑色の洗濯機用ボードを指差した。

 彼は目線をあちこち動かし、また手元にある白いボードをじっと見つめ出した。

「…へえ!面白い」

「乾燥機付きの洗濯機は2台あるから、あまり誰かと使いたい時間が重なって困る事は無いかも」

 私は彼をバスルームへと案内した。

 中はかなり広々した造りになっており、燈子さんの趣味で壁面には小さなテレビがついている。

「お風呂に入りながら、テレビ見てもいいんですか?」

「時間を守ればね」

「やった!」
 司君は小さな子供の様に目をキラキラさせ、先程よりさらにはしゃぎながら、バスルームと洗面所を交互に眺めた。

「洗面台も2つあるから、好きな時に使って大丈夫。トイレも2階と1階に1つずつあるから、大体1つは空いてる事が多いかな」

「はい!」

 彼はとっても嬉しそうで、昨日とはまた違った表情を見せている。

 昨日の夜、燈子さんは司君の事をホストや詐欺師呼ばわりしていたが、今の彼を観察していると、まるで天然小学生男子だ。

 彼の素顔に、ますます興味が湧いてしまう。

「1階にはオーナーの燈子さんと、高野さんっていう男の人が住んでいるの。燈子さんは『燈子さん用ドア』から、隣の自宅とこっちを行き来していて…」

「燈子さんの家、隣にあるんですか?」

「うん。燈子さんが今住んでいる家。でも燈子さん、夜寝る時に自宅に帰るだけの事が多いかも。普段はこのリビングにいて、食事は私たちと一緒なの。食事当番に燈子さんも入っているのよ」

「…食事当番…!」

「うん。司君、料理は出来る?」

「…一度も、やった事無いです」

 彼は不安そうに台所を見つめた。

「どうしよう…」

「じゃ、慣れるまで一緒にやろうか?」

 私が彼に提案すると、

「ありがとうございます!...助かります」
彼は、ほっとした表情で私を見つめた。

「私も腕はまだまだだけど。基本的な包丁の使い方は、教えてあげられると思う」

 彼は台所に手をついて、想像する様に目を瞑った。

「…楽しみです。沙織さんと料理するの」


 
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