【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
「もう年末だね」

水樹くんがエプロンを外した姿でカウンターの奥に現れる。

「うん。会社の人たちは皆忘年会で頭がいっぱいだよ。全部忘れてやるーって」
「そうなんだ。僕は忘れたくなことばっかりだな」

クスクスと笑う水樹くんに「例えば?」と聞いてみる。すると少し間を置いた後彼は口を開いた。

「今でもはっきり覚えているのは、数ヶ月前に・・・涙の跡がくっきり残った表情が暗い人が店に来てくれたんだけど」

明らかに泣いてそのままの足で来たのだろう。でも話し掛けづらくどうしたらいいか分からなかったと水樹くんは苦笑いしていた。そして涙で顔がぐちゃぐちゃなその人はコーヒーを注文したらしい。思わず咳き込んでしまう。

「でも・・・コーヒーを飲むとね、その人はふっと笑みを漏らしたんだ」

そこまでの話で、その人が誰なのか簡単に予想がついてしまった。
「ああ、僕の淹れたコーヒーその人を笑顔にできたんだって、彼女を見てとても嬉しかった」
「・・・水樹くんが淹れたコーヒーは特別に美味しいからね」

どんなに悲しい事があろうと、不思議とコーヒーを飲むと心が落ち着いて笑みを漏らしてしまう。魔法を掛けられたみたいに。きっとその魔法はその人だけではなく、たくさんの人に掛けてきたのだろうと思う。

「それからその人が来るたびに、どんなに疲れた表情をしていても・・・そうじゃなくても笑顔にさせたいってコーヒーを淹れていたんだけど」

そこまで言って、一旦水樹くんはクスリと微笑を浮かべる。その目は私を捉えたままで。

「でも途中で気づいた。きっと僕はその人の笑顔が見たくて、コーヒーを淹れていたんだって」

「ーーーね、奈央ちゃん」と囁かれた声に鼓膜の奥が震えた。


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