暗闇の中で
総武線の車内。秋生は窓ガラスに映る自分を見つめていた。かつて、ここには「他者」という名の摩擦が溢れていた。肘がぶつかり、誰かが誰かを助け、時には見知らぬ同士が人生を交差させる。今の社会が「リスク」として排除しようとするそのノイズこそが、かつて人間が人間であることを実感するための熱源だった。
秋生はスマートフォンをポケットに仕舞い、あえて画面を見ないようにした。効率やコンプライアンスという名の「無菌室」から一歩踏み出し、彼は決意する。この時代に生きることは、もはや「安全を守ること」ではなく、「自分だけの聖域を耕し続けること」なのだと。
彼は執筆中の画面を開いた。そこには、かつての総武線で交わした、あの老婆との曖昧な会話が綴られている。彼女の曲がった背骨も、認知症の霧の中の誇大妄想も、すべてを等身大の愛として描く。
「そうだ、今の時代は『許し』がない。ならば、物語の中で僕がそれを作ればいい」
現代の冷徹な断絶を、秋生は正面から描いた。誘った喫茶店で「婆さんを誘って何になるの」と突き放された、あの絶望的な夜。だが、物語の結末はそこで終わらせない。
秋生が書き進めるのは、現代の冷たさを経て、それでもなお、明日の朝に「おはよう」と肩を叩きに行く主人公の姿だ。
たとえ相手が認知症で記憶を失っていようとも、たとえ明日また警察を呼ばれるような誤解を招こうとも、この男は決して「社会的な正しさ」の方へは逃げない。
「どんなに解剖学的に老いていても、その声に20代の魂が宿っているのなら、僕は一生、その声を聴き続ける」
これが秋生の、現代社会に対する最も前向きな宣戦布告だった。
かつての昭和の日常が、空気のようにあった「許し」を、今の秋生は自らの筆で再現する。当時の人々が無意識にやっていた「他者のエラーを愛する」という行為を、秋生は「現代において意識的に行う」という芸術に昇華させたのだ。
電車が次の駅に滑り込む。秋生は思う。
テレビが美しいと定義する、完璧な歯並びや完璧な骨格を持つ若者たち。彼らには決して見えない世界がある。腰が曲がった老婆が、ふとした瞬間に少女の声を響かせ、電車という鉄の箱の中で奇跡のような時間を共有する。その「歪な真実」を愛せるのは、この殺伐とした現代で、あえて不器用に生きる僕たちだけだ。
「さあ、続きを書こう」
秋生は指先を動かした。
かつての彼女が、認知症の霧の中で、しかし確かな温もりを伝えてくれたあの瞬間の言葉を。
『お兄ちゃん、私の家も、この走っている総武線の線路も、全部私のものよ。だから、いつまでだってここにいていいのよ』
それは嘘か、真実か。そんなことはどうでもいい。
秋生は、彼女の口内に宿る若々しい熱と、彼女がくれた「大丈夫だよ」という声を、何よりも確かな明日への道しるべとして記録した。
たとえ今の時代が、この関係を「ストーカー」や「変態」と呼ぼうとも、僕は一歩も退かない。僕たちの間に流れる曖昧で温かな関係は、どんな論理よりも強く、この無機質な都市を震わせることができる。
秋生は背筋を伸ばした。窓の外に広がるのは、冷たいコンクリートの街かもしれない。だが、物語の中に、あの懐かしい総武線の温もりを再現する限り、彼は孤独ではない。
「過去は、ただ懐かしむためにあるんじゃない。今のこの乾ききった社会に、潤いを取り戻すための設計図なんだ」
そう呟き、彼は微笑んだ。今日も電車は進む。不器用で、泥臭く、それでも人間であることに誇りを持った秋生という男を乗せて。彼の書く物語は、誰かの閉ざされた心に、かつてあった「許しの明日」を届けるために、力強く脈動し始めていた。
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