溺愛の価値、初恋の値段
あっと思った次の瞬間、 冷たい水が顔に降りかかった。


「大きなお世話よっ!」


どうやら、考えていたことが、そのまま口から出ていたらしい。


(ああ、またやっちゃった……)


母子家庭に育ったわたしは、ひとりで過ごす時間が長かったせいか、独り言を口にしてしまう癖がある。

仕事中はさすがにないけれど、気が緩んでいるときやうろたえているときなど、つい頭の中で考えていることが声に出てしまうのだ。


「開き直るなんて、最低っ!」


叩きつけられた言葉にぐらりとめまいを感じ、きつく目を閉じた。



『ほんと、サイテー』



心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。瞼の裏にひらひらと舞う紙片が見える。


(ここは、あの部屋じゃない。あれは、十年も前のことで……)


単なるフラッシュバックだと自らに言い聞かせ、鼓動が鎮まったところで目を開ければ、湯川さんはとっくに消えていた。

小さく溜息を吐いて、水の滴るメガネを外し、スーツの胸ポケットに押し込む。
レンズに度はまったく入っていないので、視界はぼやけるどころか鮮明だ。


「あの、こちらお使いください」


カウンターにいたはずのバーテンダーがいつの間にか傍らにいて、タオルを差し出していた。


「ありがとうございます。お会計をお願いできますか」

「かしこまりました。少々お待ちください」


受け取ったタオルで、顔と髪、スーツをおざなりに拭う。
乱れた髪を整えるのも面倒なので、髪をまとめていたヘアクリップを外す。

ただ伸ばしているだけの真っ黒な髪が流れ落ちた。


(せめて、自分が飲んだ分くらい払っていってほしかったな……給料日前で余裕ないんだけど)


派遣社員として働いているわたしのお給料は、そんなに多くない。
時給だけみれば、正社員の彼女より高いかもしれないけれど、不安定な立場だ。

心の中で乏しい財布の中身を嘆いたら、戻って来たバーテンダーから思いがけない言葉を告げられた。


「お会計は結構です」

「え?」

「あちらのお客様から、いただきましたので」
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