キミ観察日記
「まるで本物のキョウダイのようですね」

 洗面所を覗いた男が、はにかんだとき

「どこがですか」

 与一が少女に歯磨きジェルを使い【仕上げ】の歯ブラシをかけていた。

「それは研磨剤を含んでいませんから。うがいは軽く、ほんの少量の水で十分です」

 フッ素滞留が高く虫歯の予防にいいとされるそのジェルからは、桃の香りが漂っている。

「飲むなよ? 吐き出せ。ぐちゅぐちゅ、ぺ。そうそう」

 与一と少女のやり取りに、クスリと男が小さく微笑んだ。

「いや、笑ってる場合じゃないです。めちゃくちゃ手がかかるんですけどコイツ」
「名前で呼んでやってください」
「ですが。僕は、この子の名前を知りません」
「おや。そうでしたか」
「……なあ。お前、名前は?」

 与一の問いかけに、少女が首をかしげる。

「あー、だからな。僕の名前は、与一。お前は? 名前くらい言えるだろ」
「こーか」

 少女が、ぽつりとつぶやいた。

「……こーか?」

 眉間にシワを寄せる与一に、

「紅の花と書いて紅花さんですよ」

 と男が補足する。

「立派な名前つけてもらいやがって」

 与一の言葉に、少女はなにも答えない。

「なんかいえよ」
「では、行ってきますね」

 男が、二人に背中を向けた。
< 31 / 182 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop