にじいろの向こう側



「あー…。」


会社の社長室に入って、デスクの奥の椅子に腰掛ける。そのまま顎をデスクに乗っけて溜息をついた。


……何をやってんだ、俺は。

あんな事したって咲月に俺の存在なんて入り込んでくわけないのに。それは今までのやり取りで充分わかってた事なのに。


『言わないなら、このままキスする』


そう脅し紛いの事を言った俺に、困惑して悲しそうに瞳揺らして。けれど一切抵抗も言い訳もしない。


何故なら、“メイドだから”。

だけどそこにきっと“自分”としての意志は存在しない。当然『俺』を見てもいない。


見ているのは…“ご主人様”


メイドとして、鏡とも言える行動なのかもしれないけれど、そこに不服と寂しさを感じて…つい「来なくていい」。


…俺はあしらわれて拗ねる子供か。
どう考えてもメイドを軽んじてるダメな主人だよ…。


なんて、今は思うけど、どう考えてもドツボにハマった感じだよな。


再び深い溜息を付いてから身体を起こして伸びをした。


…とりあえず、仕事だ、仕事。
これでも俺は忙しい社長なんだよ、一応。


自分に変な事を言い聞かせてパソコンを立ち上げる。ブルーライトが少しだけ目に染みて、目を瞬かせた。


同じくして、丁寧にドアがノックされて「失礼致します」と専任秘書の上田が足を踏み入れて来た。


「本日夜に行われます、レセプションパ ーティーと、その後、料亭での会食の確認を…」


パソコンに目を向ける俺の耳に、安定した一定速度のピンヒールの音がコツ、コツ、と響く。


「最後に、こちら、明日の開発会議の資料です。」


音無く机に置かれた資料の先のスラリとした指先は、その先まで綺麗に整えられていて、控えめにネイルが艶めきを放ってる。


……咲月とは全く違う。


ふと咲月の指を思い出した。


深爪気味の指先はいっつも寒そうに赤く染まっていて所々ひび割れている事もある。


…以前、坂本さんに買って来た時、凄く喜んでくれたあのハンドクリーム。だから、咲月の指先が少しでも良くなれば…なんて思ったんだけど。


悲しく不安そうな表情で俺を見つめる、さっきの咲月の潤い多い瞳が脳裏を掠めた。

もう……使って貰えないかもな、あれも。


「……長、社長?」

「…え?あ、ごめん。」


ヤバい、話全く聞いてなかったわ、後半。


「…お疲れなようですね。本日は料亭近くのホテルをお取りしておりますので、ゆっくりお休み頂けるかと。」


上田が俺の方に回って来て、身体をかがませると、そのスラッとした手を胸元に伸ばした。


「ネクタイが曲がっております。」


目線を落とした先には、少し開いたシャツから膨らんだ胸元が覗く。
無表情のその顔が上目遣いで、少しだけ色気を帯びて見えた。


「…ありがとう。」


笑顔を作ってそう言ったら、その瞳が少しだけ潤んで「失礼致します」綺麗にお辞儀をし、部屋を出て行く上田。


まあ…ね?
大人同士の話ですから。

色々あるわけですけどね?俺だってそれなりに。


当然、節度を持って、程々にって…してきたつもりだよ?大人として、この立場として。


あんな衝動的に女を抱きしめたりとかさ……しかも相手はうちに仕えてくれているメイド。


机の上に置かれてるコーヒーを少し啜ったら思い出した、したり顔で笑う圭介。


大体…圭介が変な事言い出したのが原因だろ。



『“真面目”はそうなんだろうけど。それだけじゃないとは思うよ。』


圭介の言葉は俺にとっては誰より重みがあるんだよ。あいつが俺の執事を父さんに願い出た時から。だから…つい翻弄されて、少しだけ膨らんだ期待が変な方に膨張したんだ。


そこまで考えて、あー…とまた声を出し思考を切った。


何考えてんだ、俺は。そんな無意味な責任転嫁してる場合じゃないだろ。


何度も言うけど、俺はこれでも社長なんだって。
忙しいんだよ。

そんなね、メイド云々言ってる場合かって。


もう一度コーヒーを啜ると、頭も気持ちも切り替えて、資料に目を通しながらパソコンのキーを打ち始める。没頭すること数時間、再びドアが丁寧にノックされた。


「社長、そろそろ外出のお時間でございます。お車を正面玄関にお回し致しました。」


相変わらず品の良い微笑みを纏う上田の声かけで、パソコンの電源を落として部屋を出る。


そのまま、車に乗って全てのスケジュールをこなしてくいつもと変わらない日常。

全ての予定が終了して入ったホテルのスイートルームで、ひっくり返る様にベッドへと身体を埋めた。


「社長…やはりお疲れの様ですね。」


鞄をデスクに置いた上田がミネラルウォーターをベッドサイドに置いてくれるのが、顔を覆ってる腕の端から見えた。

甘めの香りが鼻を少しくすぐり、その存在がすぐ隣にある事を強調する。


「明日の朝は少しスケジュールが遅めになっておりますので…。」


そのしなやかな身体も、言葉遣いも、こうやって…俺を癒そうってさりげなく気を回す所も。
女として…この上なく魅力的だと思う、上田は。


不意に起き上がり、そのスラリとした白い手首を掴んだ。
それにハッと目を揺らめかせる上田に何も感じなかったわけじゃない。


だけど…。


立ち上がり、指先を上田の耳に伸ばした。


「…ピアス、外れそうだよ。」


微笑みかけてから、伸びをしながらそのまま離れる。


「今日はもう仕事もしなくて良さそうだし、たまには上のバーに飲みにでも行ってみる?」


言った俺にまた綺麗な微笑みを浮かべる上田。


「お付き合いさせて頂きます。」


ドアの前へ立ち「一旦自室に荷物を置いて参ります。」と会釈をして部屋を立ち去って行った。


バタンと閉まる音を合図に、またベッドに身体を沈めた。


…いやね?オトコの性の話をしちゃえばさ、ほんと、勿体無いって思うよ?あんだけイイ女が側に居るのに…何も無いってね。


今日、何度目か分からない溜息を深く吐いた。


『ありがとうございます。とても温かいです』


目の前に、控えめな笑顔の咲月が鮮明に蘇る。

少しずつ時間に身を任せれば表情も変わってくかもって、マフラー受け取ってくれた時は期待を抱いたりもしたけど、それも全部自分のせいで無駄になった。

…ただ、笑って欲しいってだけだったはずなんだけどね、詰まる所は。


それが…空回りであんな事して。
本当に俺は何やってんだか。

メイドと主人って関係は絶対に崩れない、それは如何あっても変わらないのに。


包み込んだ咲月の感触を思い出したら、どことなく気持ちが高ぶり、それを諫める為に起き上がってまた溜息。


…辞めちゃうかな、あの人。そりゃそうだろうって話だけどな。
あれだけ理不尽な事…というか、どう考えても嫌な事されたんだし。

辞めなくても、多分もう…俺に笑ってくれることは無いんだろうな…。



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