雨がやんだら…。
第一章…スイート、のちビター
 「んもうっ、遅いなあ…」
恵梨香は、左手首のブレスレットウオッチにちらちら視線を落としながら落ち着かぬ様子で恋人が来るのを待っていた。
 淀恵梨香は27歳。肩まで艶やかに伸びたロゼブラウンの髪に透明感あふれる色白な肌、柔らかな薔薇の花びらを思わせるようなふっくらと小さめの唇、やや大きめで潤みがちの茶色の瞳、くるみこむような長いまつ毛、クリーム色のAライン状のスプリングコート越しでも見てとれるはかなげな身体のライン…どこから見ても息を飲むほどの、色とりどりの輝きに満ちあふれる宝石のような美しさにあふれていた。
 「遅くなってごめんな」
ふと、恵梨香の耳に覚えのある穏やかなバリトンが息切れ混じりに飛び込んできた。恵梨香の恋人で3歳年上の小橋賢である。
「心配してたのよ。約束の時間過ぎても来ないから、てっきりどこかで事故か何かに巻き込まれたと思ってたんだから」
「ほんっとごめん。急に仕事入って連絡したくてもする時間がまったく取れなかったんだよ。これ、遅れたお詫びと言っちゃなんだけど…」
 賢はばつの悪そうな顔をしながら、短めの黒のウールコートのポケットへおもむろに右手を突っ込んで缶のホットココアを取り出すとおずおずと恵梨香に差し出し、どうぞと小声でつぶやいた。
 そのさまがあまりにもおかしかったのか、恵梨香は曇りのち日本晴れといったようなはじける笑顔と、はははっと澄んだ笑い声を思わず繰り出してしまった。
「あ、ココアをありがとう。大変だったね、お疲れさま」
 待ち合わせ場所の駅は、金曜日ということもあってすれ違う人々はどこか高揚したような面持ちをたずさえながら軽やかな足取りの者が多かった。
「さ、行こうか?」
「うん」
 二人は、バスターミナルのすぐそばにあるタクシー乗り場へ向かうと黒いボディーのタクシーに乗り、海沿いにあるリゾートホテルを目指した。
 久しぶりに会えた喜びを確かめるかのように互いの身体を寄せ合い、服越しからわずかに感じる肌の熱さと柔らかさをひそかに貪っている。
 久しぶりに会えた嬉しさに胸踊らせている恵梨香とは対象的に、賢は恵梨香を愛しいと思いながらも心の奥に深く押し込めてきた妖しいもやもやを心の中でくすぶらせ、妖しいもやもやに弄ばれていたのであった。
 漆黒の闇をきらびやかに彩る星屑と柔らかな光を放つ朧月、静寂(しじま)の空間へ穏やかに響かせる波の音色等がこれから二人を待ち受けているであろう予測不能の不穏をまやかすがごとく彩り、つかの間の甘い時間に彩りを添えていた。
 
 
 
 
 
 
 
 




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