俺と、甘いキスを。


でも。

──私は本当に、右京蒼士と不倫ができるんだろうか。

本人相手に一度は心に決めたものの、こみ上げる不安は後を絶たない。
明日は自分のお見合いなのだ。不純とわかっている空間に足を突っ込んだ私が、本当に純粋な気持ちでお見合いに挑むことが出来るのだろうか。

「花さん」
気がつけば、ちなみが手に書類を持って私の隣に立っていた。
「明日のディナーの件、心配はないと思います」
「とうして?」
小声の彼女に聞き返す。
「先日、駐車場で会った時に聞いたんです。「本気ですか」と聞いたら……」

心臓がドクドクと音を立てる。顔が熱い。
ちなみは微かに口角を上げると、席へ戻っていく。その後ろ姿を見つめたまま、頭の中で彼女の言葉を繰り返した。

『あの人が手に入るなら、茶番だろうが頭を下げようが、なんだってやってやりますよ』

私だって、右京蒼士を信じている。彼と一緒なら、どんなことにも付き合うつもりだ。何の茶番かは知らないが。

右京蒼士からメールがあったのは、終業時刻の一時間ほど前だった。
『研究室で仕事をする。仕事が終わったら駐車場で待ってて』

この文章を読んだ直後、聞こえた声。

「右京さんの明日のディナーの相手が決まったわよ」

途端に事務所の社員たちが、一斉に仕事の手が止まって声を上げた女子社員に顔を向ける。彼女も慌てて来たせいか、息が上がっていた。

「私……見ちゃったの。明日のお相手は……柏原研究室の……原田さんよ」

原田さん。原田京華。

今度は事務所のあちこちで声が上がる。様々な感情のこもった声がする。納得、悔しさ、落胆、歓び。

私の頭の中で浮かんだ声は、「何故」。

しかし、これにはまだ続きがあった。
「今年は右京さんの都合でディナーじゃなくて、ランチなんですって」

耳を疑う。
不倫相手がお見合いをする時間に、ホワイトデーにランチを、それも告白を断った原田さんを誘うなんて。
頭の中が混乱して、手が震える。

こんなザラザラとした雑音ばかりの頭で、今夜の食事が楽しめるとは、到底思えない。
右京さんを推したちなみには悪いが、今日は仕事を終えたらすぐに家に帰ろうと思った。

終業時刻に仕事を終えた私は、ちなみより早く「お先に失礼します」と言って事務所を出た。
右京蒼士に返信はしていない。
まっすぐに家に帰って、今日は一歩も外に出ない。
右京蒼士と、話をしたくない。
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